科学は霊能力を認め、霊能力を利用する時代へと進んでいると私は思う。量子力学がまだまだ解明されていないことだらけなのに、その解明を待たずにGPSやMRIの機械など、量子理論を応用した機械が作られるようになっている。同様に霊能力の解明を待たずに、波動医学は自然界に存在する波動を用いて高次元波動由来の難病を治し始めた。
しかし、私は「世間が霊能者を認めること」はまだまだできないと断言する。その理由は「霊能力は常識を覆す」からだ。常識の中を生きている人間が、常識を覆される屈辱に耐えることはできないからだろう。
霊能者は人間が一から修練した特殊技術を無意味に変えてしまう。例えば霊能力で犯罪を操作すると、捜査官を何百人も使って3年越しで発見できかった事件の犯人を「この人です」と一瞬で発見できてしまう。捜査のプロが修練を積んで身に着けた捜査技術を無意味にする。
例えば「ぼくはこの女性と結婚するんだ」と嬉しそうに話している人に対して「この人と結婚したら生活は無茶苦茶になってつらい思いをするよ」と霊能者にぼそっと言われるシーンを想像してみてほしい。「何をバカなことを言う!」と怒ってその霊能者と口も聞かなくなるだろう。
このような屈辱は「人間が3次元世界で努力した人生そのものを否定される」ことで感じてしまう。普通はこの屈辱に耐えられないので「あなたは頭がおかしい」と言って相手を非難することで自我を保つのがやっとであろう。
考えて見れば霊能力とは次元を飛び越える能力であり、見えない者が見え、予想できないものを予想し、当たらないくじを当て、あり得ないような人脈を作りだす。その能力は潜在的であり、努力や年齢とは無関係。人間の人生・努力・修練を軽く飛び越してしまう。努力と報酬が比例する社会において、霊能者が努力することなく奇蹟的な成果を出すことを目の前で繰り返し起こすことを一般の人々が許せるだろうか?
人間は「競争社会」という幻影の中で生きている。本来、私たちの肉体は滅びても魂は永遠であり、「生き残り競争」とは無縁の世界に存在している。だが3次元世界でのみ通用する「肉体」というものを与えられたとたんに、人々は生存競争という幻影に束縛される。この幻影のために、人は人と比較し、理不尽だとか、正しいだとか、ずるいとか、ネガティブな感情が沸き起こり支配されてしまう。霊能者は理不尽にもその比較を軽々と飛び越えてしまう。確率を無視してアタリを引き、努力を無視して成果を出し、直感のみでプロを超えた結果を出してしまう。
もし霊能者が自分の前にライバルとして立ちはだかった時、その嫉妬心は暴走する。霊能力を信じない者ほど怒りと憎しみが起こる。だから霊能者を認めることなど「できっこない」ことを私は知っている。それは肉親でさえ例外ではない。
人間は愚かにも、生存競争という幻影に囚われている間は霊能者にも神仏の存在にも否定的にならざるを得ない。それが人間のカルマなのだ。
チベット医学は西洋医学よりも、慢性病の分野で優秀な治療実績を挙げているが、西洋医学者たちがそれを認めることは決してできない。WHOが認めていても、医学者たちは絶対に認めない。
当然ながら、霊能者は人間社会の秩序を乱す過激派のように時代の支配者たちに敵対視される。中国がダライラマ14世を敵対視するがごとく。霊能者がその奇蹟を彼らの目の前で披露すればするほど、危険人物視される。
もちろん、霊能者に理解を示す器の大きい国王もいた。そういう国王は霊能者を崇拝し彼らをかくまう。しかし、その国王が死去すると、次の国王は「家臣や国民が自分よりも霊能者の意見をきくようになる」という劣勢の立場に追いやられる。器の小さい者が国王になると、霊能者を追放することは自然の摂理のように起こる(さすがに祟りを恐れて処刑はせず遠方においやる)。だから歴史を見ると霊能者集団である密教は多難であった。「霊能力」が各界でタブー視されるのはそうした理由がある。→次の本文を読む