阿闍梨になることの意味(本文)

 主人公は霊体が見えるので霊体と目が合うとその度に取り憑かれていた。波長が合ってしまうらしい。しかし阿闍梨になって金剛菩提という菩薩様と一体化すると悪霊と目が合っても滅多に取り憑かなくなった。それは菩提が持っている甲冑を身に着けることで身を守ることができるようになったからだという。阿闍梨になることで金剛菩提とのつながりが密になる。
 天部の神々は菩薩様とつながりをもった僧侶を応援し霊力を貸してくれる。しかし、その僧侶が堕落した時には天部の神々はお怒りになり罰が下る。私はむしろ、超法罪はこの「僧侶が堕落した時の罰」が圧倒的に多いと推測する。
その理由は 僧侶が天部の神を拝んで願い事をする時は「僧侶は天部の神よりも上の立場にならなければならない」と言われるからだ。つまり、菩薩や如来の弟子という立場を利用して天部の神々や眷属に対して威光を振りかざし、力づくで説得するからだ。土地開発にともない神の社を移動させたり、池を埋め立てたり、神木を伐採したりなどをするが、そういう時に僧侶は威光をかざして神々を脅して立ち退きさせる。
 だが、もしも、菩薩や如来の弟子という威光がなくなったら、それまで屈していた神々が黙ってはいない。もし、僧侶が自分の私利私欲を神に願うと、天よりも立場が上であるはずなのに、天に頭を下げることになり、立場が逆転して天部の怒りを受け、死に至ることがあると言われるのはそのためだ。
 神仏に敬意を示すべきであろう人間が、菩薩や如来の威光を傘にして神々を脅す様子はまさに天罰を食らって当然だろう。阿闍梨になることで金剛菩提とのつながりが密になるのは理解できるが、それを利用して人間の私利私欲のために祈祷をすれば、いずれ桁違いに大きな天罰を食らうはずである。
 例えば17-5.で述べたような「主人公の家には昔から三代に一人、呪術を使う人間が必ず生まれ、その者は僧侶か神官にならなければならない。一族には呪いがかけられており、僧侶か神官になった呪術者は皆28歳で死ぬ。主人公はその7代目で、幼いころから霊的なものが見えていた。」というような呪いがそうである。
 阿闍梨になることの意味をはき違えると取り返しのつかないことになる。人間は阿闍梨になろうとも傲慢であってはならない。特に神仏の力を借りる者ならば。
 本来はこういうことを阿闍梨になる者たち全員に厳しく教えるべきであろう。仏の弟子になることをはき違えてはいけないと。だが、それを曲解して越法罪というものを教えているようである。越法罪は阿闍梨という資格があれば全て許されるというような逆の意味でとらえられているように思える。→次の本文を読む