越法罪(本文)

 師の阿闍梨から教わるのではなく、自分勝手に見よう見まねで印や真言を独学で行うと罰が下るという。
 護摩供養に通っていた信者(霊感がる)が見よう見まねで印や真言を行っていたところ、お不動様の眷属(使いのもの)の狸がその信者さんに取り憑き「我は不動明王なり」と叫んだという話。そこから転じて、素人が密教のまねごとをすると魔が降りてきたり、魔ではなく本物が降りて来ても、その力に翻弄されて難病にかかり、生死の境をさまよったりするというようなことを述べている。
 だが、越法罪の詳細については述べていないので、私の医院での実話を挙げておく。長野県に、自宅でお不動様を祀り護摩を焚き、修行をしている行者がいた。その行者は1年前から全身疼痛と不眠で仕事もできない状態になった。いろんな医師に診てもらったが原因がわからず、症状が全く軽快しないため私の医院に来院した。私の妻はヒーリングを行うことでこの患者の痛みを数割改善させた。その後妻の師匠の僧侶に相談した。するとそれは「越法罪」だと言われた。
 その行者(患者)は阿闍梨の資格を持たないが、破天荒な師匠から護摩の作法を習い、護摩供養を実行していたという。破天荒な師匠は阿闍梨であるのだが、真言宗からほとんど破門同然となっているらしい。正式な阿闍梨ではない者が破門同然の阿闍梨から習った護摩供養を行ったことが越法罪に抵触し、その罰としての全身疼痛というのだ。
 妻の師匠は3人の阿闍梨を連れて長野に行き、供養に用いている神器や仏像を焼却した。患者の痛みは半分になったが続いている。長い期間が必要だそうだ。
 破天荒な師匠の弟子は100人近くいるそうだが、越法罪というのなら、なぜその行者一人が罰を受けるのか私には理解できない。なぜ破天荒な師匠が罰を受けないのだろう。私は「越法罪」は非常にあいまいすぎる概念であり、我田引水のために都合のいいように解釈されている論法だという印象を受けた。
 私の個人的な感想として、厳密な 越法罪 は存在しないと考えるに至る。そもそも 越法罪 は神仏への敬意を逸脱した無礼な行いをしつつ、神仏の力を借りて悪事や商売を行った者に下されると思っている。霊能力のない者はそもそも神仏の力を借りることができないため、法を誰かから教わったとしてもそれを活用さえできないので何も起こらないし何も起こせない。そうした しろうとに 越法罪 が適用されるはずがないと私は考える。→次の本文を読む

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