粗雑な実験は真実を破壊する(本文)

 医学は学問と呼べないほどにあいまいな理論構築をしている。生化学、組織学などの基礎医学は理論がまだ科学的と言えるが、それでも量子力学的に考察すると基礎医学でさえ真実にまだまだ近づけていない。臨床医学となるとさらに科学が入る余地がないほどあいまいである。
 さきほどの頭痛薬の例をあげよう。前述した頭痛薬の治験では「効果あり」「効果なし」という言葉を無意識に用いたが、「効果とは何か?」という話になるとあまりにも複雑な話になる。頭痛の強さ・量・質をどう表せばいい? いつの時点で効果を判定する? 効果継続時間は考慮する? 再発の場合は? など判定基準としなければならない項目が、少なく見積もっても10や20は出てきてしまう。
 例えば効果判定を服用後24時間と設定した場合、発症から24時間経過すれば薬を飲まなくてもほとんどの人が自然治癒してしまう。よってプラセボ効果が際立つようになり「100人中60人がプラセボで治ってしまう」と言うことが起こってしまう。この状態では薬の効果を先ほどの5%の法則で判定すれば、どうやっても「無効」と出てしまうだろう。逆に効果判定時間を10分後とした場合、プラセボ効果は出にくくなるだろう。だが、頭痛が軽くなる時間としては不十分であるから効果が出ない。
 このように、医学的な実験においては条件を少し変えただけでも「無効」という結果を招く。しかし、効果判定時間を厳密に服薬1時間後と指定した場合、薬の有効性がもっとも示されることになる。
 これは医学的な論文を書く時、全てに共通している。「効果判定時間がばらばら」というような「厳密な条件指定がなされていない実験」では「本当は効果あり」だったとしても無効という判定が出てしまうということを示している。
 真実を突いた非常に革命的な新科学理論でさえ、粗雑な実験で得た「無効」という実験結果で破壊されてしまうものなのだ。
 粗雑な論文による新理論の破壊は「殺人容疑者の無罪放免」に例えることができる。
警察はある殺人事件の容疑者を探しだしたとする。被害者を刺したナイフに犯人の指紋がついていた。これで容疑者が浮かんだ。が、容疑者は死亡推定時刻にアリバイがあった。では、警察はあっさりその容疑者を無罪放免にするのだろうか? そんなはずはない。警察の威信にかけて、何百、何千という聞き込みを行い、他の証拠が出るまで何百日でも捜査するだろう。 「無罪になりそうであればあるほど、全力の徹底捜査」が必要になる。捜査官の人員を増やし、調べる範囲をどんどん広げて行く。そして、全力を尽くしても尽くしても 何の証拠も出ない時にだけ無罪にする。よって、容疑者が無罪となる場合、実際には警察は水面下でとてつもなく莫大な量の捜査をしているのである。
 理論的に言えば、無罪(無効)を証明するための研究は、有効であることを証明する研究の何千倍も労力がかかる。これが科学の常識である。
 医学はこの常識をいとも簡単に無視する傾向がある。つまり手抜き操作をして、容疑者は無罪、「因果関係なし」と烙印を押して新理論を潰しにかかるのである。
医学的な因果関係の証明には、極めて細かな条件設定が必要なのだが、その設定を少しでも雑にすれば「無関係(無効)」という結果を招く。そうした心無い結果を提出することで、人生をかけて調査研究してみつけた因果関係(原因発見)を潰すことがしばしばある。
 例をあげると、薬の副作用調査研究である。あってはならないのが薬と発がん性の関係である。この関係を白としたいのならば、血のにじむような調査が必要になる。ところが製薬会社は無罪(無関係)にしたい。当然ながら手抜き調査をする。調査の手を抜けば発がん性の証拠は出ない。そして「発がん性はない」と公表する。製薬会社側は副作用の研究ではわざと手を抜いて「無関係」としたいという心情が働くのは理解できる。
 賢明な読者は、「〇〇ではない」という「否定の論文」は最初から疑ってかかる癖をつけておくとよいだろう。 →次の本文を読む