第17章はじめに(本文)

 そもそも霊障がなぜ起こるのかを考えると、マイナスの因果であり、一言でいうと「罰」である。罰をプラスととらえることもできる。その場合、病気という罰は人格を高めるための教材・修行という言い方になる。病気が何らかの罰や修行で起こるとするならば、霊的な罪と罰の関連性を研究することが次世代の医学には必要だということになる。
この章では「罰」という観念で「祟り」を見ることにするが、そこには極めて大きな精神世界の闇が潜む。その具体例を密教の僧侶たちに取材した実話を元にした漫画本「霊験修法曼荼羅:永久保貴一」や、日本で言い伝えられている祟りの話を参考にして見て行くことにする。
 罰や祟りは表舞台には登場せず、常に覆い隠される傾向にある。その理由は罰や祟りに対する無力さである。特殊な霊能者を除いて対処できる者がいない。だからこれらを表に出すことはいたずらに社会不安をあおることになる。不安にさいなまれるよりも知らない方がましという理由で罰や祟りは封印される。
 しかし、罰や祟りが実際に存在すると仮定して、それを教えないことで罪を犯すことの抑止力を失うことになる。警察が存在し、法律があり、刑罰がある方が犯罪件数が少なくなる。一方で刑罰と犯罪件数は無関係ないと述べている論文を散見するが、前述したように「関係ないことを宣言する系の論文」はそれ自体が信用性が低い。やはり警察力が強いところでは犯罪件数が減るのは当然のことである。刑罰が厳しく取り締まりも厳しければ犯罪は減るに決まっている。
 同様に霊体による罰や祟りが日常茶飯事に実在し、それらによって天罰を実際に受けていることを認識できるようになれば犯罪は減るに決まっている。そういう意味で罰や祟りを研究することはこれからの人間社会に必要であると私は考える。決して隠すべきではないだろう。
 この世に生きていて、「不運」と思えることに遭遇した場合、そこには100%に近い確率で罰や因縁との関連性があると私は思う。その原因と結果の関連性を学ぼうとしないことがはたして得策なのだろうか。いやそんなはずはない。次元や時間を超えてつながっている因縁を知らないままで生きる方がよっぽど不幸であろう。
 なすすべもなくただただその罰や祟りを受けるのではなく、その原因を知れば対処法が見えてくる。それが難病を根本的に治癒させるための正しい方法であろう。
よってこの章では、罰や祟りが起こっている現実を見て行くことにする。→次の本文を読む