神は100%善なのか?(本文)

 私は科学から宗教、オカルトまで、多くの偉人達の書を読んだ。だが結局どうしてもわからないことが一つだけある。神は罰を与えるのか? という究極の疑問である。例えばキリスト教の物語には大洪水という罰がある。神は罰として人間の命を吹き消すことがあるというのが世界の様々な宗教の常識となっている。
 だが、私のように霊能力のない者でさえ、善に目覚めていくと「腹が立つこと」が激減し、他人に罰を与えようという気がなくなっていくのを感じる。相手を憎み罰することは人を支配したいという我欲であるが、善に心が傾くと、支配に興味がわかなくなってくる。
 3次元世界にあるものは、お金も権利も学問も命や名誉でさえも幻影であり、奪われたからといって相手の命を奪い返すほどに復讐心に燃える価値がない(幻影だから)。
善に偏っている神々なら罰で人間を支配したいと思わないだろう。だから神々が「罪を犯した者に対して罰を与えて命を奪う」なんてことがあり得うるのだろうかと疑問が浮かぶ。
 密教では善行を行う者を邪魔する存在に対して命を奪うほどの罰を下す菩薩様がいると言われているが、私は、そのような死刑執行を行う善なる神仏はいないと思っている。現実には、死刑執行という天罰が存在しているが、その罰を執行するのは善霊ではなく、常に悪霊ではないかと私は思っている。
 ここでは一つの例を挙げ問題提起としておく。
 日本では、四国お遍路は衛門三郎が弘法大師様に会うために寺を巡りながら渡り歩いたことが発祥であると言われている。弘法大師様が衛門三郎の屋敷に托鉢に来られた時に、彼は弘法大師様のお鉢を叩き割った。その後衛門三郎の8人の子供たちが次々と1年毎に全員が死んでしまい、彼はそれを天罰であると受け取った。そして弘法大師様に会ってお詫びをするために四国八十八箇所のお寺を回り歩く旅に出た。
 この伝説は非常に恐ろしい話である。お鉢を8つに割った罰として8人の子供全員を殺されたのだから。ではこの天罰は誰が下したのだろう。それは弘法大師様が霊界で親密にしていたかなり力の強い霊体であろう。その霊体は善霊なのか悪霊なのかどちらなのだろう? ここで問題となるのは、弘法大師様が無慈悲に人を殺すような霊体と親密であることだ。8人の子供を次々と呪殺していく様は、あまりにも無残であり、普通に考えれば悪霊の仕業と思う。だが、弘法大師様が悪霊を使ってそのような残忍なことをしたとはとても思えない。
 この歴史的大問題を解決するには「善なる神仏が残忍な天罰を与えることがある」というところに落とし込まなければならない。果たして本当にそうなのか? 他に考えられる理由がないのだろうか。
 スウェデンボルグによれば、残忍な罰を、天上界の神々は100%しない。つまり残忍な罰を与えたのは地獄の悪霊の仕業。つじつまを合わせるとすると、弘法大師様には善霊も悪霊もたくさん憑いている。とするか、衛門三郎側についていた悪霊が残忍な行為をした、とするしかない。
 天界に登っていくことがほぼ決定している弘法大師様のような人物には悪霊でさえ憧れ、追っかけをするのだろう。衛門三郎の子供が全員呪殺されたのは、弘法大師様の追っかけをしている悪霊が、悪霊ならではの歪んだ正義感を実行してまったのではないかと私は考えるに至る。
 善なる神は罰など与えない。罰を与えるのは常に正義感の強い魔系の神であると私は思う。
 考えて見れば罰とは人を服従させ支配するための見せしめ。支配は我欲の頂点の欲求であり悪霊の最も固執する欲望である(善霊は支配に固執しない)。だから先ほどの弘法大師のお鉢の話は、正義感の強い魔系の神が衛門三郎の子供たちを呪殺したのだと推測する。
 正義感が歪むと「他人に罰を与えたくなる」ものであり、悪霊こそ正義感が極端である可能性がある。だから正義とは善でも悪でもないと私は思う。
 スウェデンボルグによると、霊界では地獄界から霊界に這い上がってこようとする霊に対して審査と粛清が行われる。審査に不合格な霊は奈落に突き落とされるのだが、「突き落とし」を実行するのは天界のトップクラスの善霊ではなく、地獄との境界にいるレベルの低い霊たちであると彼は述べている。
 このように私は善なる神は「罰を与えない」方に賭ける。
 ただしそうなると、弘法大師様クラスの方にも悪霊が憑くのか?という見過ごせない問題(宗教界のタブー)が生じる。実はこのタブーをしっかり研究することが霊界を正しく理解するために必要である。この件は非常にデリケートかつ難問なので後に回すとする。→次の本文を読む