私たちは次元を考える上で、x,y,z軸と空間軸などの概念を用いる。点、平面、立体、時間、パラレルワールド…といった具合に。
しかしこの考えは視野が狭い。例えば、夫婦、家族、町内、市、県、国という単位を見て行くと、夫婦喧嘩と国同士の喧嘩は次元が違う。国家を創生しようとする者の考えと、家族を守ろうとする者の考えの次元が異なる。
同様に、体の細胞の動き、組織の動き、器官の動き、人間の動き…は次元が違う。上の次元から下の次元の動きや意味は理解できるが、細胞レベルが人間の動きを予想することも理解することもできない。夫婦が話し合っても国家の意図は読めない。
このように次元の違いは同じ3次元世界の中でも存在する。
微生物は人間や動植物たちがどこで何をしようが全く無関心であるし、自身の存在意味も全くわかっていない。しかしながら微生物なくしてこの世界の食物連鎖は完成しない。つまり微生物は食物連鎖の重要な役割を担っており、その役割のおかげで地上の生物が生き続けることができている。微生物の次元、植物の次元、昆虫の次元、動物の次元、人間の次元、街の次元、国の次元、地球の次元・・・と様々な次元があるが、それぞれ、下の次元から上の次元を理解することはできない。しかし、各々は単独で生きているわけではなく、次元の低い者も高い者も相互依存しながら生きている。その次元の一つでもなくなれば、母体(全ての次元)が全滅する。
私たち人間が最高次元であると考える者が科学者の中に多いことはよく知っている。キリスト教的には人間は神の申し子である。そして地球上に人間以上に強い生き物がいない。しかし、それは次元の低い考え方である。人間、地球、太陽系、銀河系・・・と宇宙はさらに広がっていて、人間自体が体細胞の一部であると考える方が論理的である。
その論拠は、私たちの寿命が決められていることにある。植物は1000年以上生きていられるというのに、人間はせいぜい100年である。寿命は支配されている証であり、人間全体を操作している高次元の形態形成場が存在していることの証拠と思われる。私たちは100年で死ぬように生命場を操作されている。
よって、人間が一つの体細胞とみなすような更なる高次元世界が存在しているはずであり、私たちは役割を持って生きているということになる。そして人間が絶滅すれば、相互依存している高次元の母体も死滅する可能性がある。だから人間を無闇に消すことはできないのである。
人間一人一人の持つ意思は人間よりさらに次元の高い世界で何らかの役割を担っているはずである。私たちが人間の一生を精いっぱい生きることで高次元世界の何かに役に立っているのである。しかし私たちにはその役割が見えない。ところが高次元に存在する神の視点からは人間の役割が見える。
心筋の細胞は100年近く収縮運動を繰り返す。だが心筋細胞には血液を送り出すポンプの役割をしていることがわからない。だがその上位の次元にある人間の視点では心筋細胞が何の役割をしているのかがわかる。
だから人間を統合して命令を出している神から人間たちを見れば、人間の役割が丸見えである。神の視点を得るためにはまず、一つ上の次元である霊界を理解することがら始めるべきである。
スウェーデンボルグがそれを行い、彼は私たちに著書を残してくれた。彼の視点からわかったことは、霊体と肉体は個別に存在し、霊体は死なないということ。霊体はコミュニティを作り、どのコミュニティに入るかは生前の行いに依存するということ。コミュニティはランク分けされていて、そのランクを行き来が出来ないということ。まずはこれだけの手がかりで私たちが何の役割を担っているのかを想像しなければならない。だが、実際は霊界の管理システムを知ったところで、役割までは見えてこない。なぜなら、彼が霊界を訪問したのはわずか30年という一瞬であり、何億年という長い単位で見ていないからだ。たった30年では転生輪廻の仕組みが見えてこない。
しかし、寿命が何百万年という神の視点ならその辺のことは見える。
ブッダは実際に次元の高い世界を見て回ったと言われている。が、ブッダは「言葉にはできない」と口を閉ざした。言葉にすると誤解を招くからという。
さて、ここで一つだけ私の個人的な意見を述べる。
世の中には「私は高次元の神である」と述べている者が結構多い。高次元の神であるならば神の視点を持っていなければならない。だから私が抱いている疑問には全て的確に答えられるはずだろう。それが高次元の神の証となる。「私は神である」と述べる者は神の視点で私たちの世界の仕組みを論理的に語っていただきたい。→次の本文を読む