理論の飛躍(本文)

 私はここまで、世の中の科学者たちが客観的に研究してきた論文を中心に解説してきた。科学論文というものは90%の研究結果と10%の推論から構成されると考えてよい。問題はその推論部分にある。推論は研究結果から導いたものでなければ科学論文とは言えない。誰かが推論したことに対して、さらに自分なりに考えを発展させて推論を述べることを「飛躍」といい、それは理論として認められず、「思想」と呼ばれる。
 思想には信じる根拠がないので、信者だけが信じるという世界になるため、それは宗教と呼ばれる。私たちは文章を書いて人々を救ってさしあげようと考えるのなら、その救う範囲を常に考えておくべきである。世界を救いたいのなら科学が必要になり、周囲の1000人を救いたいのなら思想で十分である。おそらくこのことは科学がどれだけ発展しようと、人々が神を信じるようになっても普遍である。
 そして思想と科学の中間に「疑似科学」が存在する。文章を読むときは、その文章が3つのうちのどれに当たるのかを考えて読むことをお勧めする。何を信じるかは個人の自由なので論じない。
 さらに重要なことは論者の話がフィクションなのかノンフィクションなのか?を見極めること。カレルの話は事実を元に書いているのでノンフィクションである。だから一定の信用性がある。自分の調査ではなく、他人からの言い伝えをまとめた内容はノンフィクションとは言えない。
 私が今、なぜこんなことを述べるのかというと、これ以降、カレルの話のように「大勢の共通体験から編み出した論文」ではなく「一人の経験から編み出した論文」を紹介していくからである。
 それは超能力や霊能力、神の世界、霊の世界、宇宙の力にも言及していくからだ。一人が経験した神秘体験は事実であっても「思想」ととられてしまう。それは信者だけが信じる話となり宗教となる。だが、一人一人の神秘体験をまとめて研究していくと、神秘体験の共通性が見えてくる。するとその共通性は事実である可能性が高くなる。その共通性と科学理論から考察した推論であれば、少しは信用性が増す。
 カレルの話を例にとると、彼の前で起こった奇蹟は事実だとしても、推論は「神の存在」という飛躍がある。飛躍しているから「神は存在しない」という「神の否認」には絶対にならない。ただ、科学が神を認識できるレベルにないというだけの話である。だが、結核性腹膜炎が一瞬で治るという奇蹟を見てしまえば、人間の力を超越した何かのパワーが存在することは間違いないと考えるのは当然。だからそうした神秘体験を研究している方々の意見をまとめていけば、共通性が見出せるだろうと私は考える。
 それは飛躍した理論のどこからどこまでがフィクションかノンフィクションかを見分ける目安にもなる。
 難病を治したい患者にとって、理論の飛躍はどうでもよいことであり、ただ治った事実があれば、その方法を知りたい、そしてその方法は客観的で信用ができるか?を知りたいだけである。それが科学的であるか?世に認められているかはどうでもよい。
 その観点からすれば、科学・思想・疑似科学という分類をするよりも、共通性を考えればよい。ただし、共通性を見出すにはできる限り幅広い視野と、とんでもないことを言っている著者にも耳を貸して理解しようとする寛容さと、いろんな書物を読んでまとめる編集力が必要になる。私はその役を買って出ただけのことである。→次の本文を読む