深見東州先生の著書を読むと、精神世界が陰謀の渦巻く世界であると理解できる。霊能者(教祖)が少しでも我欲に走ると、その隙をついて魔が差すと述べている。魔が差した霊能者は身を滅ぼすだけでなく信者にも有害となるため、霊能力を憧れ求めることに対して警鐘を鳴らしている。霊能力が強く、我欲に満ちた者は、魔にとって格好の餌食になるだろう。
彼は低級な霊に立ち向かうすべを教えてくれているが、それは決してたやすいことではない。競争社会を生きていると魔が差すことから逃れられない。それは高級な神が降りている立派な教祖でさえ例外ではない。
こういう話は、教祖たちがもっとも話したがらない。なぜなら、これらの話は精神界の「恥部」だからだ。国王をも支配できる密教の大僧正にさえ、これらの恥部が存在している。それを明かすことはタブー中のタブー。そのタブーを打ち破り、宗教界の暗闇を教えてくれる彼の著書には敬意を表したい。ただし彼の発言も全てが正しいとは受け取らず、さらに視野を広げることを勧める。
神霊界には人間が太刀打ちできないレベルの知恵を持つ霊体がごまんと存在している。人間を騙すことなど3歳児を騙すよりもたやすい。騙しの手口はあまりにも巧妙で、人間の世界から推測できる次元ではない。
霊能者の間での意見の相違が出る理由は、それだけ神霊界には巧妙な詐欺がたくさんあるからだと考える。低級な霊はバカだから「彼らの騙しをすぐに見破ることができる」と思うかもしれないが、知恵のレベルが極めて高い悪魔も存在すると考えたほうが理にかなっている。詐欺を見抜けないことは想像以上に多いだろう、それが霊能者間の意見の相違を作っている。
彼の意見によれば、善良に生きている霊能者には魔がよりつかない。よって一生を善良な考えで暮らした霊能者(僧侶)は魔が巧妙な詐欺を行うという事実を知らずに一生を終える。おそらく、出家すればそれに近い状態になるのかもしれない。一方、深見先生のように在家で事業家であると、競争社会を生き抜いているだけに魔が忍び寄る機会も山のようにあったに違いない。だからこそ彼は「魔」についてこれほど的確に論ずることができているのだと思う。
たくさん魔を経験し、たくさん魔を看破してきたからこそ、魔に打ち勝つ守護神を身に着けることができたのだと私は推測する。それは出家して潔癖に生きた僧侶よりもはるかに修行や功徳を積んだことになっている。そういう意味で彼の「魔」に対する分析は貴重な教材になっている。→次の本文を読む