浄化、厄取り、呪詛(本文)

 過去生で先祖が恨みを買い、霊に恨まれてその子孫に病気が出現する場合、お祓いし続けることでターゲットが変わり、例えばその方の娘が死に至るということもある。誰かの死と引き換えに、霊の復讐が成就します。こうした死の犠牲を払うことで霊障が起こらなくなる場合を「死と引き換えに厄払いができた」という。家族の誰かが若くして死ぬ場合、それは厄払いの犠牲だったのかもしれない。
 「運命が呪われた時には、魂の本質に突き刺さるような深い波動に強い呪詛が取り憑いていますのでこれを祓うことは容易ではありません(同著)。」
 人は各自が霊体なので誰もが「呪う力」を持っている。殺されて霊になってから呪う場合もあれば、生きている間に呪う場合もある。生きている間の呪いは「生霊」とも呼ばれている。密教の修験者はこの生きている者の呪詛を祓うことができる。それは生霊返しと呼ばれ、呪いをかけた相手に倍になって返ると言われる。そのため陰陽師は生霊返しをしない。
 おそらく、生霊は私たちが日常でもっとも遭遇する霊障であり、いかに生霊を生み出さないような人生を送るのかが試されているのだと思う(生霊の詳細は16章で)。
 呪詛は呪った側もそれに気づいていない場合が多い。知らぬ間に怨念を飛ばしてしまうことがある。だから普段から人に恨まれることを多くしている(嫌味をよく言う人など)はあちこちから呪詛を飛ばされていると思ってよいだろう。
 ただし、呪詛の正体は私には理解できない。呪詛はまるで意識があるかのように人に取り憑くが、それを飛ばした根源の人間はこの世に生きている。つまり、呪詛は自分からコピペして生まれた意識体ということになる。もはや自分から分離したその意識体は自分の意志をもち相手に取り憑こうとする。その辺の仕組みが私には理解できない。
 その呪詛が、万一跳ね返されて戻って来た時は、自分の体を蝕むというのだから恐ろしい。人は誰かを恨んだだけで、相手も自分も危険が及ぶということなのだろうか。この辺はまだまだ私も勉強不足である。親の言葉、医師の言葉、学校の先生の言葉も強い呪詛となり取り憑くと言う。自分が指導的な立場にいる者こそ要注意である。→次の本文を読む