普遍的意識(本文)

 密教では身体は死んでも意識は死なないと述べていることから、意識は永遠であることを前提としている。それゆえ意識は無限の未来に等しい、無限の過去のあらゆる経験の総計を含んでいると考える。つまり、意識は氷山の一角であり、その意識が出現するに至るデータベースは無限の情報を含んでいて、これを普遍的意識と呼んでいる。
 普遍的意識は「あらゆる個別化と限定を超越している。その本質的本性において完全に純粋で普遍に存し、一時性の過ちから逃れ、利己主義にわずらわされず、区別、欲望、嫌悪によって乱されることはない。」と。
 一方で、個人的経験意識があり、これは転生のたびに消去されるが一部が残り、過去と連続性のある個人的意識も存在するだろう。が、この辺はあいまいにするしかない。
 心はこの普遍的意識と個人的経験意識の重なりと均衡で形成されているという。
 しかし、こうした密教的解説は矛盾に満ちている。心の構造原理は、密教の中でもっとも深淵で高次元に存在し、言葉で解説されて「ああ、なるほど」と言えるものでは決してない。にもかかわらず言葉でそれを表そうとしているのだから矛盾である。ここには無数の矛盾が存在しそれを解決する手段を私たちは持っていない。
心は普遍的意識と個人的経験意識の重なりというが、普遍的意識と少しでも重なることができれば、想像を絶する叡智が手に入るのであり、それが一般人に不可能であることは私たちが日常を経験して理解している。
ならば、一般人は「叡智とつながっていない」「普遍的意識と重なっていない」ことが明らかである。普遍的意識は存在し、そして各自の心の奥深くに存在しているのかもしれないが、それはつながっていない。つながっていないのは存在していないことと同じ意味である。
おそらく、ハエやゴキブリ、ミジンコ、ウイルスでさえ普遍的意識を内在している。しかし、彼らの意識(本能)は普遍的意識とのパイプを持たない。そしてパイプを持たなくても、餌を食べ、縄張り争いし、生殖することくらいはやってのけるのである。当然ながら犬や猫も普遍的意識を内在しているだろうが、そことつながる能力を持たない。
普遍的意識とつながる能力が霊能力であり、逆に言えば、人間でなくとも、高い霊能力を持つ動物は普遍的意識とつながることができるだろう。稲荷、龍、狛犬、神鳥などがそうなのかもしれない。
 地上に存在する多くの生き物は個人的意識のみで生きており、普遍的意識とつながっていないことは確実である。
 そして、同じことは高次元世界においても言える。肉体が滅び霊となった意識体でさえ、普遍的意識とつながることは極めて難しい。霊となった魂が全て普遍的意識とつながることができるのなら、全ての魂が「神化」するだろう。それが可能なら転生輪廻はそもそも不要である。逆に、転生は普遍的意識とつながることを目的として何度も何度も繰り返されるのだとすれば、まさに、肉体を持った方が、普遍的意識とつながる能力が進化向上しやすいはずと考える。
 さぞかし、霊界にいる魂は歯がゆいだろう。肉体が滅び魂だけになり、高次元世界を移動できるようになり、普遍的意識が存在することを知ったとき、「肉体がある方が普遍的意識とつながる能力が向上しやすい」ことを知るからである。逆に、肉体があるときは自我に縛られ、普遍的意識が存在することに気づくことができない。だから普遍的意識とつながる努力をしない。このアンビバレンツが皮肉過ぎておもしろい。
 かくして、普遍的意識とつながる能力が霊能力であると私は確信している。密教はまさに普遍的意識への(有限から無限への)アクセス方法を教える教科書なのだろう。
 だが、霊能力がない者には普遍的意識の存在を知り得ない。だから密教は霊能者にしか開かれていない。もし、私のように霊能力のない者が、生きている間に普遍的意識へのアクセスができたなら、奇蹟と呼んでいいだろう。アクセスできないにしても目指す価値はある。→次の本文を読む