屋敷を取り壊してマンションを建てる計画があったがそこには立派な稲荷が祀ってあった。稲荷を取り壊すために僧侶を二人読んで撥遣供養(天に帰っていただく供養)を行った。そしてマンションを建てたが、その後、家の長男が死亡、その妻が入院。一階に住んでいた家族と息子が体調が悪化。稲荷のお宮のあったスペースに契約した車は次々と皆事故で大破。おそらく拝んだ僧侶も祟りのために亡くなっただろうと思われた。祈る力がない僧侶が撥遣供養をすると、祟りが連鎖する。
撥遣(はつけん)供養は魂抜きとも呼ばれ、別の言い方をすると殺すことを意味する。仏界に移動していただくというような美しい言い方をするが、殺人のことを魂の浄化と呼ぶことと同じような意味合いがある。私たち人間が魂を抜かれることは「この世の最大の恐怖や不安」であるが、神々の魂を抜くことがどの程度酷なことかは私たちには理解できないところがある。
山や海、物や言葉にも魂が宿ると言われるが、人間はそれらの魂を追い払い人間の住居を作る。そして社を作って神々を呼び、人間の都合で社に宿った魂を抜く。そして社を移動させ、移動させた場所に再び魂を入れる。これが残酷なことではないと断言できる者は果たしているのだろうか。
私たちは牛や豚や鶏から魂を抜き、その肉を食らう。それと同じように神々の魂をも抜いたり入れたりする。このような撥遣供養は人間にとって必要であることは頑として認めるが、上記のように命を落とすほどの祟りがあることから分かるように、極めてダークサイドの供養であることがわかる。誰かがやらなければならないのだが、私はたとえ霊能力をもっていたとしても個人的にその役割を引き受けたくない。
神の魂を抜こうとするとそれを行う人間の魂を逆に抜かれてしまうという因果を考えると、神々の魂を抜くという作業には神々に死という苦痛を与えるのではないかと考えてしまう。気を伐採するときも、木の魂は苦痛を感じているのではないかと考えてしまう。私たちが死を迎えることが苦痛であるのと同様に、神々の魂がお社や石碑から抜かれることは苦痛なのではないかと私は推測する。
再度言うが、魂を移動させることは必要と認めるが、それは闇に傾いた「必殺仕事人」のような作業かもしれない。これを霊能力を持たない僧侶が行うことがどれほど危険なことかがわかる。また、霊能力を持っていたとしても、神々に立ち向かって彼らの魂を抜こうとする僧侶もまた命知らずであると思う。人間の我欲を叶えるために、勇敢にも神々に立ち向かってくださるその姿勢は非常にありがたいが、できれば、神々の機嫌を小手先の供物で短期間だけとって、後は知らんふりというのは避けていただきたい。神々の怒りの矛先を変えて怒りの先延ばしをすると、神々の寿命は永遠に近いのだから、未来の人間たちが祟りを受けることになる。
さて、主人公が稲荷の跡地の駐車場に供養しに行くと、格の高い立派な荼枳尼天(だきにてん)と何千と言う眷属の狐がそこにいて、狐たちが激しく怒っていたという。主人公は用意した供物や神器では説得させきれないと悟り、自分の体に乗り移らせてお寺に連れて帰り供養したという。
これは霊感が強い主人公だからこのような機転を利かすことができたわけだが、そうでなければ祟られて命を落とすところだった。密教の僧侶とはいえ、師匠の命令通りに動かされていたのでは命がいくつあっても足りない。自分の勘を頼りに自分の進むべき道を自分で決めて行かなければ取り返しのつかないことが起こる危険性がある。特に霊能力の高い僧侶は要注意である。→次の本文を読む