私は超能力者と暮らしている。すると電子機器が日常的に狂うことを日々体験する。カーナビが狂って200キロも離れた地点を示したり、車のウィンドウ・サンルーフ・トランクが同時に開いたり、ロックのかかった自動ドアが外側から開いたりなどなど、様々な超常現象を体験できる。
だが、その能力が存在していることを国は認めるわけにはいかない。超能力者はAIを狂わせることができる。ならば車や飛行機の自動運転開発、様々なAI開発の安全性をどう考える? 決まり切った答えだが…AIは「安全ではない」のである。今後は手術でさえロボットが代行する世の中になるだろう。しかし、誤作動すれば命がない。超能力の存在は、AIが誤作動するはずがないという安全神話を崩してしまう。
今が、機械支配(AI支配)の世の中であることは誰もが認めること。世界中がAIの開発合戦にしのぎを削っているというのに、AIが超能力によって誤作動することを皆が知れば大変である。それは産業の発達を遅らせ、国力の低下にもつながる。必然的に懐疑論者が国を救っているという意見にもなるだろう。
私がここで言いたいことは、「超能力を懐疑論者が否定する」ことは、機械が支配している現代社会では当然のことであり、議論することではないということだ。
生命の神秘を科学で言い表すことができないことなど、誰もがわかっていることだろう。しかし、国家としては超能力の存在を認めるわけにはいかない。認めれば国家の支配体系を崩してしまう。だから懐疑論者が優勢。表向きはそれでよいのだと私は思う。
科学で解明できないことを語れば懐疑論者から激しく攻撃されることはやむを得ないし、攻撃がなくなることは未来においても絶対にないはずである。人間の知識は、未来永劫不完全であるからこそ、懐疑論もまた未来永劫なくなることはない。
超能力を語れば社会から抹殺されるのは当然のことであり何の不思議もない。それを嘆くこともまた非常識であろう。真実は人間の知恵が及ぶことのない深いところにある。だから、ここで語るのは「実際に起こっていること」であり、その理由を解明して世間を騒がせるつもりは毛頭ない。
次章で紹介するノーベル医学賞受賞者のアレクシー・カレルはこう述べている。
「科学では説明できないからと言って、ものごとを否定すべきではないことも科学の義務である。単に研究の困難さを理由に、もしくは同時代の学識者の無視や嘲笑に見舞われたために、研究を放棄してはならない。」と。
超能力があるかどうかではない。科学で解明できないことなどあるに決まっているではないか。決まっていることを議論する意味はない。ビジネスのために、国を運営するために、懐疑論者はこの世に必要なだけであり、彼らの存在が真実を探求することの足かせにすること自体が間違っていると私は思う。
これまでの章で、科学がどのような立ち位置にあるかを解説した。次章からはいよいよ科学が立ち入ることのできない領域について、ノーベル医学賞受賞者、アレクシー・カレルの「ルルドへの旅」を参考にして述べて行く。→次の本文を読む