意識(本文)

 意識の構造が考えられるようになったのは17世紀以降であるが、2000年前にブッダは意識を般若心経の中で説いていた。ブッダは意識を色・受・想・行・識に分類。
色:感覚に訴えるもの全て。その刺激による心の反応。
受:感情、情動、快、苦痛
想:直感的、熟慮的、推論的意識、識別的知覚群と言われる
行:意志力によって引き起こされる業の結果
識:統合したもの

 意識とは「気づいている状態」である。
 例えば歩いていると焼き鳥のにおいがした。においに気づいた時点が「色」。「いいにおい」と感じた(受け入れた)時点が「受」。「こんなところに焼き鳥の店があったんだあ。ちょっと寄り道して食べようか、でも無駄遣いしたくないし。」と葛藤するのが「想」。やっぱり食べようと「店に入って実際に食べる。」のが「行」。一連の行為には食文化、過去に食べた経験、焼き鳥と認識するための学習、食べ方、お金の支払い方、安全に関するものなど様々な事象が絡んでおり、それらをまとめて「識」と、私は解釈した。実を言うと、意識、無意識の世界は言葉では表現できない非常に複雑で深い概念のためそれをこのように言葉にすること自体が矛盾である。だから私の解釈は単純すぎて真意に近づいてさえいないと思う。が、ブッダは2000年以上前に、これほど哲学的な理論を構築していたことに驚かされる。
 さて、ここでは私の見解としての意識を少しだけ述べる。
 ふと「ラーメン」が頭に浮かび、「今日は博多ラーメンを食べに行こう」と考えたとする。ではなぜ「ふと」ラーメンが頭に浮かんだのだろう。この理由を真剣に研究することが心を知ることにつながる。密教では心は宇宙の真理とつながっているわけであるから、「ふとラーメン」の理由が解明されれば、宇宙の真理を解明したことになる。それほど「ふと」は難解だということだ。
 食べ物がたくさんある中でラーメンがふと浮かんだ理由を、一般的には自分の脳が勝手に考え出したと思う。だが、真実は誰かの思念があなたの脳に入りこんだのかもしれない。密教的には思念が他人に影響を及ぼすことは普通(当たり前)のことである。もし、そうだとすると、あなたの頭に浮かんだ「博多ラーメンが食べたい」というのは、何割があなたのオリジナルの意識なのか?ということを真剣に考えるべきだ。自分の意識でラーメンを選んだと思っているが、そもそもその意識の何割が自分のものだと気づくことができるのだ? どこまでが自分なのか? そもそも自分とは何なのか? 「われ思う、ゆえにわれあり」の哲学である。この手の話は密教の極めて深い話なので言葉には表すことができない。
 ただ、私のように霊能者と365日暮らしていれば、意識は自分のもののように見えるが自分のものだけで構成されていないことを認めざるを得なくなる。なぜなら意識を操作することができるからだ。これは自分自身が乗っ取られることを意味する。洗脳や教育もある意味「乗っ取りが成功した例」である。この世に解脱や悟りを得た者以外に、全く乗っ取られない人間なんて存在しない。そして霊の存在を信じるのであれば、乗っ取りは「霊」も絡んでくることが理解できる。霊の数は動物をも含めると無数。それらから日常的に乗っ取りが行われているとすると、その中で自分を保つことができるだろうか? 実はこのテーマが精神病やその他の病気とも絡んでくる。→次の本文を読む