必要悪(本文)

 ここでは私の個人的な意見を述べる。罪と罰があるのは、そもそも更生する可能性があることを意味する。罰を与えても全く更生しないならだれも罰を与えない。例えば、ピラニアやサメ、ワニなどに共食いをやめさせるために、罰として共食いした個体を殺処分にするだろうか? するはずがない。罰を与えても更生することがあり得ないからだ。そもそも罰は更生する可能性があるから与えるものである。この世が罰だらけなのであれば、それはこの世が更生が必要なものだらけであると考えることができる。悪事を働く者が多いので罰だらけとなる。ただし、罰を下されるだけまだましと言えるだろう。
 では、法で裁けない悪事を働いた者に、誰がどのような罰を与えるのか?を考えてみよう。心優しく慈悲深い人格者が罰を与えることは絶対にない。罰を与えることに嬉々とする者が悪事を働いた者に罰を与える。つまり悪事を制するのは悪であり、善ではない。
 このような考え方から派生して、罰を与えることに悦楽を感じる者が「必要悪」であると私は定義する。法で裁けない悪事を犯した者は必要悪の者たちから罰を受ける。
 必要悪の者たちとはどんな方々だろう? 一番多いのが生霊を飛ばす人、つまり嫉妬深い人たちがそうである。次に多いのが人を支配したがる者・支配したがる霊体で、彼らはとにかくおとしまえをつけさせることに命をかける。最後に、高級神や武神に仕える魔系の眷属たち。生霊→おとしまえ→魔系の眷属たち、となるにつれ罰に大儀がある。これは子供のケンカ→大人同士のケンカ→国同士のケンカ、となるにつれ大儀が必要であることと原理は等しい。
 しかし、いずれにも共通しているのは「罰の強さと支配欲の強さ」は比例していることである。前述したように罰は更生を目的としており、強い罰は強制的な更生=支配=服従させることを意味している。
 まとめると、罰を与えることに悦楽を感じる者=支配欲が強い者、であり、必要悪=支配欲が強いものたち、と定義できる。
 悲しいことではあるが、支配欲の強い者たちの「罰」なしでは、悪事の更生はあり得ない。だから支配欲が「悪に傾いた力」であったとしても、私たちはその力を借りなければ秩序を保つことができない。だから必要悪と呼ばれる。→次の本文を読む