胚が分裂して人体のような高度な建造物が作られるのは形態形成場が存在するからだとするこの仮説は秀逸であるが、その場は過去から来るものであるという時空的な制約を受けるので、どうしても理論整然としない領域の話になってしまうのが残念である。
形態形成場は過去から来たものであることは確かであるので、過去を永遠にさかのぼるとどこに原点があるのか?という話になる。
形態形成場をとことんさかのぼると、それは結晶の形態形成のようなもので、初回の結晶は必ずしもたやすく起こらない。しかし、回数を重ねるにしたがって形態共鳴により結晶化は簡単になる。形態形成はこの重ね合わせの平均化で安定して行く。
その例をあげると、「エチレンジアミン酒石酸塩の結晶を作っていた工場があった。開設1年後、タンクの中で何か別の結晶が異常な成長をし、もう一方の工場にも現れた。別の結晶は一水化合物で、この事件後、それは至る所に現れた(ホールデンら(1961))。同、ホールデンは「我々の済む世界にはまだ知られていない個体の種が数多くあるのかもしれない。その成分が存在しないのではない。単にまだ適切な種子が出現していないためにそれらの物質はこの世に姿を現していないのだ。」と述べている。
当然ながら、遺伝と形態形成場の関わり合いの疑問が生まれ、機械論と激しく対立する。
機械論が遺伝にかかわる全ての現象をDNAによる遺伝的継承に帰しているのに対し、形態形成場仮説では「生物は遺伝ばかりでなく、過去に存在した同じ種の生物の形態形成場からも特質を受け継ぐ(形態共鳴)」としている。
形態形成場仮説を主張する者は優性遺伝や獲得形質の遺伝の問題点をうまく説明できるという。確かに近年は獲得形質は実際に遺伝することを示す十分な証拠が挙がってきていて(ウォディントン(1975)エジンバラ大学誌)、ダーウィンの進化論やメンデルの遺伝論が窮地に立たされていることは事実である。機械論者は遺伝子に関しては若干、量子論者や形態形成仮説に押されていることは否定できない。
このように、形態形成場の論点は、遺伝子、種の起源、生命とは何か、という問題に帰依して行くことを避けられない。そして、これまで、ダーウィンやメンデルなどが築き上げた遺伝子の世界が崩れれば崩れるほど、形態形成場仮説の勢いが増す。
既存の科学者たちは既知の科学理論を論破されることを毛嫌いし憎悪するが、量子論が着実に一歩ずつ、彼らの城壁を崩しにかかっている。よって、これまでオカルトだとみなされ、トンデモ科学として扱われていた理論が支持を集め始めている。
世界では、なんでもわかっていたはずの科学から、実は細かなことはわかっていない科学に変化しつつあり、それを扇動するのは量子論者と言えるだろう。だから量子論者は旧科学者たちによって殺したいほど憎まれるのである。ちなみに量子論者から見れば、量子論を取り入れることのできない科学者を旧科学者と呼ぶに等しい。医学・薬学・生物学などの分野には旧科学者が圧倒的に多いことは言うまでもない。→次の本文を読む