法力・霊力のある密教の僧侶は「選ばれし者」である。彼らは自身の存在を神の上を行くと考えているらしい。神は仏(如来や菩薩)を敬っているので、仏の弟子になった僧侶は神の上を行く立場にあるらしい。僧侶たちは仏の「虎の威を借る」ことで天部の神に圧力をかけ、交渉を行っても無事でいられると思っている。
私がもし、如来の立場にあったとしたら、如来の威を借る人間(僧侶)が天部の神の上に立って指示をしている姿を歓迎しないだろう。
僧侶たちが守護霊に守られ、その後ろ盾により多少の無茶(神や悪魔を説得すること)ができることは確かであろう。だが、僧侶が「寺を大きくしたい」「信者を集めたい」「弟子を多くとりたい」「子供に跡をつがせたい」などと我欲に走りだしたら、高級な神仏は力を貸さなくなるだろう。
だから我欲にまみれた人間の心願成就を祈祷し続けると仏の加護が弱まっていく。その代わりに魔系の神が僧侶の守護霊となり、その僧侶は戻ることのできない魔への道へと向かう。いつの間にか守護霊が魔系に入れ替わっていく。
神々は「僧侶には厳しいが俗には(一般人には)優しい」と言われているが、私はそうは思わない。僧侶たちは仏の後ろ盾で神々に無茶を要求するので、後ろ盾が無くなった時にその報いが厳しい罰として帰ってくるという意味であると私は理解している。
特に、霊能力の強い男性僧侶は、その力で魔系の神を相手にゴーストバスターズのようなことを血気盛んにやっていく傾向がある。その闘争心や支配欲が道を踏み外す原因となっているように思える。
実際に密教の僧侶から話を訊くと「自分たちが密教の僧侶になったのは罪深いからだ」と述べている人が多い。これは謙遜ではなく本当にそうなのかもしれない。魔系の神たちと交渉しなければならない職業につくことになったのは、それ自体が前世に犯した罪のつぐないだというのだ。
問題となるのは僧侶たちがその法力を何に用いたかであると思う。多くの人々の幸せのために用いたのか我欲のために用いたのかの違い。それで善か悪かを判断されるのではないだろうか。悪と判断された僧侶に魔系の神霊が取りつくのは自然であろう。
残念なことは、出家僧侶という俗世間から隔離された世界に浸っていると、我欲の渦に巻き込まれていても気づかなくなる可能性がある。また、地位が高くなるにつれ、意見する者がいなくなり、魔系に変貌する抑止力が失われてしまう。何が我欲なのかは常に我欲と戦わなければならないものである。その点、俗世間で活躍している霊能者の方が、出家僧侶よりも我欲をよく理解していると言えるかもしれない。
私は医師を30年しかやっていない若輩者であり、宗教のことはからっきし何もわかっていない。神仏の世界を勉強し始めたのは2年前である。一人の科学者が、法曹界のことを2年しか学んでいないのにこのように法曹界を考察することができたのは、そこまで量子力学という科学が霊界にまで足を忍ばせているからだということを感じ取っていただきたい。一昔前のように密教は「密なる世界」ではなくなってしまっているのである。世間一般の人が普通に理解できる世界になってきているということを密教界の方々は認識した方が得策である。
すでに医学は、インターネットの普及のおかげで、全ての病気の病態生理をネットで調べることができる時代になっている。だから医者は困っているのである。患者が医者よりも自分の病気について詳しいからだ。
同じことが法曹界にも起こっていることを知ってほしい。これまでは誰も知らなかった神仏界の法則を、今では誰もがネットで調べることのできる時代になっている。それを踏まえた上で、教祖たちは宗教活動や信者集めをした方がよいと思われる。→次の本文を読む