密教の怖さ(本文)

 霊能力を持つ者は、高次元エネルギーとつながることのできる資質を備えている。高次元エネルギーは想像を絶する力があり、3次元世界の力では太刀打ちできないため、私たちが恐れる力でもある。その力を自我を抑制できない者が手にした場合、人を支配するためにその力を使うことを避けることができない。高次元のエネルギーは、創造や治療の力になり得るが、一方で破壊、破滅を推進する力、すなわち支配の力になりうる。人々を支配するためには破壊に使い、その恐怖心をあおって操ることが手っ取り早い。そしてその手っ取り早い方法が過去も現在も未来においても使われ続ける。
歴史の暗闇部分には必ず密教的な力が関わっている。キリスト教もイスラム教も仏教もその呪縛から逃れることはできない。密教的な力は世界各地のシャーマンが扱っており世界中で暗躍している。善の力もあれば悪の力もある。悪の力、魔の力については15章、16章で紹介する。
 3次元世界に住む者にとって高次元世界のエネルギーは極めて理不尽で抵抗し難い。しかし、抵抗できないわけではない。高次元の力によって抑圧されるのなら、さらに高次元の世界の神に頼んで、その力を抑制してもらえばよい。つまり次元の軍拡競争が繰り広げられることになる。
 すなわち、私たち3次元世界は鳥かごの中なのだが、その鳥かごの中の鳥たちの争いを発端にして、かごの外の飼い主同士が争うことがある。さらに飼い主たちもさらに高次元の主人の家来だったりする。このピラミッド形式の支配体系がどこまで続くのか想像もできないが、3次元世界はもっとも底辺のようだ。
 こどもの同士のけんかが、その親同士のけんかに発展することがあるように、私たち人間同士の争いは神の世界に争いを引き起こす。これも当然のことであり、そのとばっちりで不幸になる人間も存在する。そういう裏の世界を考えなければ密教の世界に首を突っ込むことは危険である。
 日本神話の世界(古事記)では神々が争ったり、すねたり、意地悪をすることが記されているが、世界の神話も争いが記されている。これはつまり、神々とて「自我」を持ち「我欲がある」ことを示しており、危険な存在であることを意味している。
 危険な力(神の力)にすがった場合、利益は大きいがリスクも大きい。子供の喧嘩を解決するためにやくざの力(魔の力)を貸してもらうとどうなるか。それ以上の見返りを要求され、人生を犠牲にしなければならない。
 また、神の世界もサラ金と同じように、低級な神ほどお金をたやすく貸してくれて、利息の請求額やとりたてが厳しい。高級な神は、たやすくお金を貸さないが、利息も安く、とりたても温和であろう。取り立てに応じない人間に祟りを与えるのも神々の特異分野である。
 また、霊能者も、その能力や格が低い者ほど低級な神と契約する。格が低い霊能者は我欲を満たすために神に力を借り、その見返りとして信者たちの人生を差し出す。つまり生け贄である。そうした教団に入信した信者は、不幸としかいいようがないが、それもまた、信者が我欲を満たすために教祖のいいなりになったカルマの結果と言える。密教的な力にはそうした闇の部分があることを決して忘れてはいけない。
 密教で教える高次元のパワーは、基本的には霊能者でなくても、祈ることで得られることもある。病気を治すために当病平癒を祈ることは誰でもあるが、それでさえ「誰に祈っているか?」においてリスクがつきまとっている。低級な神に祈っていた場合、厳しい見返りを要求されてしまうだろう。
それは治療師でも同様。治療師も患者を治そうとするときに祈ることがあるが、その祈りにもリスクがある。 日本では、商売を繁盛させるために、気軽に稲荷の社を建てる習慣があるが、これにもリスクが多々ある。
江戸時代は「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と、どこにでもあるものを風刺した俗語があったが、それほど安易に人々が密教的な力を得ようとしていたことがわかる。そのしわ寄せは、明治・大正・昭和・平成と時代が進んでも、まだまだ各地に残っている。
 再度言うが低級な神ほどご利益をたやすくさずけてくれるが、その見返りについて、自分が亡くなった後も義務が消失するわけではないことを重く考える必要がある。祟りは子や孫たちが見返りを放棄することで発生することが多い。→次の本文を読む