密教の世界観(本文)

 再度言う。密教は私たちの理解を超えた世界の話である。それは架空という意味ではない。実在するのだが理解を超えているから実在を証明できないというたぐいの話である。
 証明できないのになぜ実在すると言えるのか? それは霊能者たちが実際に体験できている世界だからだ。
 実際に超能力が存在するが、超能力者ではない一般人は「超能力などない」と主張することを私たちは知っている。世間には霊能力を持たない人間が大多数を占めるので、その多数決で霊能力があることを否定されている。
 超能力がない者に超能力を理解することはほとんど不可能である。同様に霊能力を持たない者に密教は理解できない。だが、それでは霊能力を持たない者は高次元世界を理解できないままに一生を終える。そこで、高次元世界の存在を理解するために、仮にただ一つの事だけを受け入れることにする。それは「霊」が存在するということ。つまり、密教の世界観をのぞくために「霊が存在していること」を事実と仮定して話を進めるのである。
 「霊が存在する」とは、肉体は死んでも魂(意識)は死なないことを意味している。意識とは何か?という話はここではしない。それを解説するとさらに膨大な量の哲学になってしまうので他の書物を参考にされたい。
 霊能者は他人の魂(意識体)を自分に降ろすことができる。降ろしている間、霊能者は別人になる。変わるのは癖や得意技、記憶、嗜好、姿勢など、骨格以外の全てである。
 私は霊能者(妻)と毎日を過ごしているが、その能力のおかげで亡くなった母と普通に会話することができる。会話だけではない。亡くなった母に夕食をごちそうすることだってできる。母しか知らない情報も母の降りた妻はしゃべる。母の意識体は母の記憶を保持している。私は霊能者と生活を共にしているので霊が存在していることを疑うことはない。
 私たちが寿命と呼ぶものは、肉体という有機物の機械と意識体が合体していられる時間のことをいう。それは運転手と自動車の関係である。自動車は寿命が来ると壊れて動かなくなるが、運転手は自動車から降りて新しい自動車へと乗り換えることができる。ただし、乗り換えた時に「前の車に乗っていた時の記憶を消される」ようだ。
 「魂(意識体)が存在する」とは、転生が存在し、かつ魂の永遠性を認めることを意味する。この永遠性を前提として「転生の存在理由」を背理法で説明する。「もし、転生しないと仮定する」とよい。
 魂は(意識体は)生命体の数だけ存在する。転生がないと仮定すると、肉体は滅びると肉体を持たない魂(意識体)が増える。生き物は生と死を繰り返すので、これを何千億年、何兆年と永遠に繰り返せば、宇宙全体が魂のエネルギーで埋め尽くされる。生と死が繰り返されるたびに、肉体を形成していたエネルギーが魂を形成するエネルギーへと置き換えられていく。そうすると物質(肉体)は枯渇する。おそらく宇宙が保有するエネルギーの総量は変化しないと思われるので、宇宙は魂(意識体)だけの世界となり、物質のない世界になってしまう。それはあり得ないので転生は存在していなければならないという理論(背理法)。
 魂(意識体)が転生するのであれば、魂(意識体)は肉体を持つ期間と持たない期間を交互に永遠と繰り返す。魂(意識体)はその都度前世の記憶を消される。が、消される記憶は「全て」ではない。ひなから育てた鳥でさえ、きちんと鳥の言語をしゃべる。カッコウは托卵されるが生みの親のところに戻ることができる。蜘蛛は誰からも教わらずに巣を作ることができる。それらの情報は遺伝子の中には入り得ない。つまり、魂に記憶されている(または、親の魂から分与される)と考えなければつじつまが合わない。これらが転生したからと言って「能力の全て」をリセットされるわけではない証拠と考える。前にも述べたが生前の記憶を持つ(生前の傷跡を持つ)者も存在している。
 つまり記憶や能力の一部は転生しても残すことが可能ということ。ならば、不要な記憶は消されて、必要な記憶は残されるのが適応というもの。種によって不要なものと必要なものに差があるようだ。が、おそらく、宇宙全体の魂(意識体)の進化から見て、「絶対に必要なもの」は一貫しているだろう。必要な記憶は蓄積されていくことだろう。
 転生した時に「消される記憶」「残される記憶」「新たに植え付けられる記憶」「冬眠させられる記憶」などがあると私は推測する。私たちは次に人間に生まれるとは限らない。養豚所の豚に生まれるかもしれない。その時に生前の記憶は「食べられる運命の豚」にとっては悲痛なだけであろう。
 そして種に特有な技能(渡り鳥の渡りの能力、コウモリが、クモが巣を作る)などは新たに植え付けられる(母体から分与される)情報。こうした情報が遺伝子の中に全て含まれているとする現代科学の知見は古い(稚拙)と言われる時代になった。
 さて、ここで考えてほしいのは冬眠させられる記憶についてである。これは何度転生しても蓄積される記憶と言える。必要に応じてその記憶は目覚め、目覚めた時にはじめて成長していける記憶。そして成長しても転生の時に再び凍結される。そして何かのきっかけで冬眠から覚めた時に再び成長を繰り返す。凍結した記憶は「どんな種に転生しても失われない記憶」である。
 すなわち、どんな種に転生しても転生した分だけこの記憶が成長し続ける。これを永遠に繰り返せば、この冬眠させられる記憶はやがて、全てを超越した知恵(能力)となる。たくさんの種に転生したほど知恵が大きくなる。
 この「冬眠させられる記憶(能力)」にどんなものがあるのかを想像することはとても楽しい。愛、慈悲、利他的行動、カリスマ性、天才の脳、超能力などがそのうちの一つかもしれない。
 ただし、これを空想すると本題から外れる。よって凍結される記憶については一旦考えるのをやめる。が、転生が存在するのなら、凍結されながら蓄積され続ける記憶が存在するはずだという理論はある程度通用する。転生して全ての記憶(能力)がリセットされてしまうのであれば、転生に意味がないからだ。
 魂(意識体)として存在する期間は永遠なのに、肉体を持つ期間はほんの一瞬である。その一瞬の世界に降り立つと「全ての記憶や能力を消される」というのであれば、誰が何のために転生するというのだ。それは意味がないというよりも、魂(意識体)の抹殺に等しい。だから消されずに蓄積されていく記憶(能力)が必ず存在するとう理屈が成り立つ。
 ここまでの話を整理する。
 霊があると仮定すると、転生が存在する。転生が存在すれば、消される記憶(能力)と蓄積される記憶(能力)が存在する。蓄積される能力は全ての種において共通した有用性がある。転生を永遠に繰り返せば、蓄積された能力はやがて全知全能となる。
 なぜ魂(意識体)が転生を繰り返すのかの理由は、究極的に全知全能を得るためだと理解できる。そこにたどり着く教えが密教である。これ以上単純明快な説明はない。
 すなわち、密教とは転生しても消されずに蓄積されていく能力についての研究である。理解できなくても、誰でも転生を永遠に繰り返せばかならずたどりつくはずである。しかし転生回数が浅い者にはその門戸が開いていない。
 少し話を脱線させる。魂(意識体)が蓄積した能力を得るために転生を繰り返すということは、「数回の転生では真理に到達できない」という逆説を生む。一方、真理にたどり着いた魂(意識体)はすでに永遠の転生を経験済みである。年齢に例えると1歳と1兆歳くらいの差がある。地球での人間史はまだまだ浅いが、宇宙の他の星で、転生を何千回と経験している場合もある。だから地球人だから転生回数が少ないとは限らない。「永遠の転生」をなめてはいけない。永遠とは想像を絶する力を秘めている。
 ところが、密教の僧侶たち(密教だけではない)は、厳しい修行をすれば霊能力が備わると考えている者が多い。それは1歳の幼児が、1兆歳の全知全能の神に対して「30年修行すればあなたのようになれますよ」と言うに等しい。
 人間という生き物に転生し、宇宙の仕組みに気づき、そして修行するという幸運に恵まれた。それは霊能力を伸ばすための好機である。が、数十年修行したくらいで、全知全能になれると考えるのは人間ゆえの傲慢でしかない。
 ブッダは人間を経由して全知を得たが、それは「この世に転生する以前に無限の転生を重ねた結果」であり、偶然に全知になれたわけではない。確かに数十年の修行で悟りを開ける人間も存在するが、それは過去生で莫大な数の転生を経験したからに他ならない。その記憶が修行をきっかけに今世でよみがえっただけである。
 しかし、その真実を表に出せば、年功序列支配の体制が崩れてしまう。つまり、支配体系の維持のために「修行で霊能力が身につく」というゆがんだ発想をつくりだす。よく考えて見ることだ。強大な霊能力を持つ人間は、世界中を探せばちらほらいるが、彼らは修行をしてその能力を得たわけではない。もともと備わっていたという事実を見返してみることだ。これはとくに、厳しい年功序列体制を敷く法曹界に対しての苦言である。
 人間としての見た目の年齢に惑わされてはいけない。70歳の大僧正が魂の実年齢が1兆歳の地球年齢20歳の人に対して説教している姿を想像してみてほしい。滑稽だろう。見た目が若者であっても、魂の記憶がよみがえれば、目の前の人が雲の上の存在であったということがある。
 話を戻すことにしよう。あなたに「一つだけ願いが叶う」とすれば何を願うだろう。「最たる願い」を考える。それは「全ての願いを叶えられる力を得ること」を願うことだ。すなわち、それを全知全能という。
 永遠の転生の中で、魂(意識体)が進化させていきたい、蓄積させていきたい能力とは全知全能である。
 よって、転生しても消えずに蓄積していく記憶(能力)とは「全知全能の力」へと向かう能力以外に存在しない。密教ではそれを不死と錬金と具体的に言う場合もある。だが、不死は意味がない。すでに魂(意識体)は不死である。錬金も肉体を持っている時だけ有効なので意味がない。どちらも3次元世界では憧れの力だが、高次元世界から見れば一瞬にしがみついているだけの余興である。
 本当に優れた最高の能力とは召喚能力である。自分が全知全能である必要はない。全知全能を自分の肉体に呼びこめばいい。すなわち、それができるのが霊能力である。
 霊能力とは高次元にある情報にアクセスできる能力のことを言う。幽霊が見えてしまうのは、高次元にある魂の情報を自分の脳内(視覚野)で正しく情報処理できるからだ。霊能者は自分の魂(意識体)を高次元に旅行させることや、他の魂(意識体)を自分の肉体に呼び込むこともできる。高次元世界の未来の情報にアクセスすることもできる。これらの能力が全知全能に最も近い。そしてどんな種に転生しても有用である。
この能力を持っていれば記憶など不要である。魂(意識体)の数だけ多種多様な情報があることを意味し、その大元とつながることができれば、あらゆるソフトをダウンロードでき、あらゆることが可能となる。
 魂(意識体)たちは宇宙の星々のあらゆる過酷な条件の下で、あらゆる無限の知恵を身に着け、その知恵が大元にどんどん無限にストックされていく。そこにアクセスする能力、すなわち霊能力だけは転生しても失われないのであれば、魂(意識体)は転生すればするほど霊能力が上昇し、大元とのパイプが太くなって行く。
 人間の中には、運動神経・記憶力・演奏力・学習力などが超人的な者がいるが、それらは転生によって得られた「ストックされた記憶」の一種と考えることができる。だが、それらの能力とて霊能力(召喚能力)から比べると些細なものである。
 無限に転生できると、霊能力も無限に高まることを意味する。霊能力が無限とは何を意味するのか? 無限に転生すれば何が可能になるのか? そこに行きつくのが密教である。無限とは誠に恐ろしい別世界の話である。
 科学でさえ発展が無限であれば想像を絶する進化を遂げる。ならば宇宙中の意識体の全てが、転生しながら永遠を生き、宇宙全体から学習した情報をストックして行けば、一体どんな叡智が出来上がるのだろう。それは全てを創りだせる力であり、全てを破壊することのできる力である。
 そこにアクセスした者が破壊に執念を燃やせば・・・非常に恐ろしい世界が待つ。ゆえにこの力には何重にも鍵がかけられており、その鍵は小手先の知恵では決して開かない。だから「密教は恐ろしい」と考える必要はない。鍵を開けようと思っても簡単には開かない。霊能力が冬眠させられてしまうのは、冬眠自体が鍵の役割を果たしているのだろう。鍵を開けるための正しい人生を歩まなければ鍵が開かないようにできている。その鍵は何重にもなっている。
 世の中の人間の中には「莫大な霊能力を持っているが冬眠のまま」の人が大勢いると推測される。なぜ、そう思うか? 私の妻の霊能力は、ある僧侶との出会いでいきなり出現したからだ。それまでは冬眠していた。僧侶と出会わなければ、おそらく冬眠のまま一生を終えていた。
 マフィアのボスが若いころに霊能力に目覚めたらどうなるだろう。またはヒトラーが霊能力に目覚めたらどうなっていただろう。と推測してみる。
 霊能力を我欲を満たすために用いると極めて理不尽な世界になる。理不尽な世界を永遠に転生しても魂(意識体)は進化できず、自滅の道を行くだろう。だから冬眠から目覚めるには条件をクリアしなければならないはずだ。その条件は無数に用意されているだろう。
 また、我欲を一時的に抑え込み、条件をクリアして霊能力を得、その後に我欲が芽生えてしまう者もいるだろう。それを修正するシステムも存在しているだろう。なぜなら、宇宙の大元は全知全能である。全知全能とはエラーを修正する能力も含まれている。霊能力が我欲に使われるというエラーはごく初期の単純なエラーであり、それが修正されないはずがない。修正システムを私たちは天罰と呼んでいる。
 さて、「修正」という言葉はきれいだが、現実問題として「修正」は修正される側にとっては大変厳しいものとなる。それは使った霊能力が強ければ強いほど厳しいものとなる。おそらく地獄の責め苦が待っているだろう。全知全能の力を持つ者に、不可能などない。地獄という世界を作りだし、そこに魂(意識体)を隔離することもたやすいことだろう。密教は「いいことばかり」を教える学問ではなく、ペナルティについても教える。
 少し想像を膨らませると、恐ろしいことはもっと身近にある。
 我欲が強すぎるせいで、霊能力の冬眠が覚めなかった一般人が実は怖い。この人が誰かに恨みを持って死んだらどうなるか?
 冬眠していた霊能力は肉体を解放された時は開錠しやすい。肉体から解放されると我欲が消失するからだ。しかし、恨みだけは残っていたとすると、その目覚めた霊能力で、恨んでいる相手を呪うことができる。その霊能力が強いのであれば、ほぼ何でもできてしまう。
 事故に合わせること、けがばかりさせること、痛みで苦しめること、不妊にすること、子孫を絶滅させること、不治の病気にさせる、悪人とばかり縁をつなげるなどなど。だから基本的に誰かの恨みを買うことは、この世を生きるすべとして得策ではない。
 そうした障りや祟りについて研究し、解決策を見出そうするのも密教である。だから密教では障り・祟り(霊障)の解決法を学ぶ。これはかなりダークな部分であり闇である。闇を学び、闇の操作方法を知り、そして闇の力に魅了されて闇に堕ちる密教の僧侶も跡を絶たない。
 では、霊障というものが、そもそも全病気の何割を占めるのか?を考えてほしい。霊の数は莫大であり、生きている者の数より圧倒的に多い。ならば霊障は決して少なくないだろう。具体的な数字はわからないが、霊能者であれば「慢性病のほぼ100%」と言う。
 霊障を西洋医学で治すという発想は正しくない。そこで、本気で患者を治療しようとした医療従事者は、必ず霊障の世界に足を踏み入れることになる。大部分の病気が霊障なのだから当然だ。そして、それを解決するには密教の教義が必要になることに気づいていく。→次の本文を読む