奇蹟として認めない強硬姿勢(本文)

 科学支配の世の中で、もっとも嫌われているのは「奇蹟」であることは言うまでもない。「半身麻痺が治った」「癌が消えた」などの奇蹟が実在しては困るのが科学の立場である。
 奇蹟であることを否定すれば科学は万能のままでいられる。
 カレルの死後、公表された「ルルドへの旅」は科学界にとって大いなる衝撃であった。が、科学者たちは当然ながらカレルの体験談を「そんなものは奇蹟でも何でもない」と断定する必要があった。
 彼の死後20年が経過した1960年代、カトリック教医師のジャキにより、公式に「ルルドへの旅」が「そんなものは奇蹟でも何でもない」と断定された。
 理由は、医学的、科学的記録が不十分、ということだった。私は医師なのでその意味をしっかり理解できる。簡単に言えば証拠不十分。主観的で妄想の域を脱さないという意味である。
 私はここで「医学界では奇蹟的に治った場合に、それを証拠不十分のために奇蹟と認めない」とするやり口を解説する気はない。もともと奇蹟とは「証拠を残すことができない、今の科学のレベルでは証拠を見つけられない」ものであるから、証拠不十分と言われることはむしろ当然で驚きもしない。どんな記録を残しても必ず証拠不十分なところが出てしまう。
 超能力の科学的調査の章で、現代科学を尽くして研究したところで、それを検証するのが人間である限り、トリックを見破ることができないことを述べた。奇蹟も同じ理由で、検証すること(それが奇蹟だと認定すること)は不可能。
仮に奇蹟的に治した場合、最終的には「それはきっと精神病だったのだ。精神が病んでいたために幻の病気を作り出し、その精神が癒されたために病気が消えてなくなったのだ」と言い訳されることを私は熟知している。実際に私の医院で奇跡的に治癒した患者は他の医者から必ずそう言われる。患者たちはそう言われて精神的に相当落ち込んでいた。
 科学は常に生気論と機械論が戦争をしており、その戦争に決着がつくことは永遠にない。科学の歴史において、その戦争は論者の命を奪うほどに激しいことは既に述べた。歴史に残らず暗殺された学者もいた。そして現在も激しく戦い合っている。未来も戦っている。すなわち、これを医学に言い換えると、奇蹟か奇蹟でないか? の決着は永遠につくことはなく、医学派と超医療派は未来永劫戦い続けて決着はつかない。
 科学支配の世の中でカレルのように「医学を否定するような手記を残した者」の作品は、公式に否認しておかなければならなかったという現実だけが残った。
 それでは話が長くなったが、カレルが体験した奇蹟の治癒について要約する。→次の本文を読む