大乗仏教の理念と矛盾(本文)

 密教は一般的には大乗仏教の中の秘密の教え、つまり大乗仏教に含まれる。
 密教は霊能者にしか扱えないという大前提がある。が、この前提はしばしば破られてきたはずである。その理由は大衆に広まらないという点。密教が霊能者のためだけにあるのなら、それは霊能者たちのマスターベーションだという批判が高まったはずだ。密教の存在意義がないと。
 この批判から、密教の大衆化を試みることにならざるを得ない。が、大衆に理解できない教義を大衆化するという究極の矛盾が存在していた。この矛盾は当然ながら科学が進歩した現代においても消えることは決してない。
 大乗仏教と言う言葉ができたのは、密教がマスターベーションでは意味がない、一切衆生を救ってこそ意味がある。衆生を救うことがもっとも効率の良い修行であると主張し出したのがきっかけである。つまり一般大衆も共に教えの船に乗せてしまおうというのが大乗の意味である。しかし、ブッダの叡智と大衆の理解力の間には次元の壁が存在していた。例えるならば水槽の中の魚に大海で起こる様々な現象を人間が教えるようなものである。
ブッダは究極の霊能者であるから、悟りも解脱も宇宙の叡智と一体化することも可能であった。だが、ブッダのように悟ることは弟子の誰一人としてできなかった。
 仏教はブッダの教えを広めることが目的であるが、それは言葉に表すことができないほど深く複雑というところに矛盾がある。しかもブッダの弟子が霊能者ばかりだというのに、弟子たちの霊能力はブッダの足元にも及ばなかった。その弟子たちが仏教を世に広めようとするわけだから、ブッダの精神の中にある真意を民衆に広めることはもともと無理だった。
 しかしながら「確実なことは・・・完成、悟りという状態は人間によって達成されたのであり、同じ方法によってその状態を達成することは全ての人に開かれている(同著)。」と述べている。ブッダと同じ悟りが「全ての人に開かれている」というのは大乗仏教を広めるための詭弁である。ブッダを目指すのであれば、おそらく転生を何万回と繰り返し、様々な惑星に生まれ、宇宙全体の情報を得る必要があり、人間の短い一生で悟りが開けるというのは無理がある。
人間の一生は瞬く間であり、精神が十分に成長するには一瞬すぎる。だから「悟りが全ての人に開かれている」というのは受け入れがたい。悟るまでの土台は前世までで築かれていると考えた方が理にかなっている。
 チベット密教も含め、日本の密教も、この詭弁を言い続け、今も尚そう主張している。それは「買わなければ3億円が当たらない」と宣伝している宝くじのようなものに聞こえる。実際に弘法大師のように、悟りを開けた人間も存在するが、そのような人物がこの世に出現する確率は極めて低い。
 あたかも「宝くじを買うことで3億円が当たる」かのように大衆に説教することは真理からかけ離れる。だが大乗仏教はコアに密教という真理を持つため、その威光を利用して大衆に矛盾を説教するようになったのだろう(王者の油断といったところか)。
 この矛盾は各時代の宗教家たちを失望させた。その結果、日本の仏教は様々な宗派に分かれて行った。
悟りと完成の夢を大衆に持たせるのは悪くない。が、本来、悟りは既に何百何千回と転生した者が、転生歴の最後の人生において開けるようになると私は考えている。
しかし、いつの世も密教が莫大なパワーを秘めていることだけはその時代の支配者たちは知っていた。そこで支配者たちは悟りを開くためではなく、支配力を得るために密教の信者となった。その結果、密教は支配者だけが好んで信仰するブルジョア教の色を出してしまった。そして今でもそのブルジョア寄りの姿勢が非難されている。その根源には「もともと密教は霊能者にしか理解できない」という大前提がある。矛盾の原点だ。こうした事情をふまえて、大乗仏教の理念について考える。

 大乗仏教では精神成長の完成形として解脱の3パターンを挙げた。
1、 聖者(阿羅漢)は愛欲と自我の幻想を克服した者(悟りではない)
2、 辟支仏(びゃくしぶつ)ブッダの知恵を得たが他に伝える能力を持たない者
3、 正等覚者 悟りを開き宇宙と一体化した者

 この3パターンの中で、ブッダ以外の者が到達できるのは1のみだろう。2、ブッダの知恵は何次元も超えた叡智であり、未来もパラレルワールドも、ブラックホールも時空の歪みも全て認識できるレベルである。これは地球史上ブッダにしかできなかったことであり、仮に達成できたとしても、できたことを言葉で伝えることもできない。ましてや、霊能力を持たない普通の人間が2に達することはあり得ない。霊能力を持たなければ時空を超えて高次元を体験できないからだ。唯一、1だけは霊能力を持たない普通の人間が到達できる。しかし、自我の幻想を克服したとは、何をもってそう判断するのか? 判断が難しい。
 このように「解脱が全ての人間に開かれている」と言ったところで、それはブッダと比較にならない超低レベルな話である。ブッダと同じように悟れるという人間がいたとすれば、それは極めて傲慢かつ失礼な話であると私は思う。ブッダのような人物が再び地上に現れるには30億年かかるという説もある。弥勒菩薩がその候補としてあげられている。
 100メートルを9.9秒で走ることは「人間が達成できたことだから、全ての人に開かれている」というような現実離れした宣伝を、大乗仏教は言い続けてきた。買わないと当たらない3億円宝くじのようなものである。しかし本当に仏陀を目指すのであれば、30億年計画で精神の修行をしなければならない。しかも、その間、転生を数百万回繰り返し、かつ、その数百万回のうち一度も悪の道に脱線しないでいる必要がある。その確率は宝くじで3億円を当てるよりもはるかに低い。だからブッダが二人として地球に現れないのである。
 私は、解脱や悟りという言葉を、修行の目標として用いるべきではないと思っている。そもそも悟ったとしてもそれを証明できるものはない。ましてや一般大衆には無縁の言葉である。
 大乗仏教は、目標をあまりにも高く置きすぎている。その脇の甘さは隙をつかれる。隙をついているのが小乗仏教であろう。「大衆を救う前にまず自分を救いなさい」と言われるのである。自分を救うことができていない霊能者が、大衆を救う霊能力を身につければ、それは大衆を救うと言う名のもとに支配欲を満たすために用いられてしまうということであろう。
 この点は過去も現在も未来も常に問題となる。霊能力の高い者が人間の器が大きいとは限らない。逆に霊能力は低いが人間の器が大きい者に密教を統率してもらう方が安全であろう。安全のために密教は厳しい師弟関係を敷く。しかし、霊能力の力関係は師弟が逆転することがある。これが密教を内部から不安定にさせる要因になる。
 空海は密教を唐の青龍寺の恵果阿闍梨からわずか数年で伝授されたが、これは空海に圧倒的な霊能力が備わっていたからに他ならない。霊能力が年功序列の壁を破った。が、その結果、中国の密教はそこで絶えてしまった。空海は人間としての器も極めて大きかったからこそ伝授されたのだろう。しかし実際には霊能力と人間の器のバランスは、相当複雑で難しい問題となる。器の小さい者が高い霊能力を持つと、たやすく我欲に支配されてしまい魔に落ちてしまう。それほど密教は大きな力を秘めている。それはそうだろう。高次元世界から低次元世界を攻撃すれば、低次元世界はひとたまりもないのだから。その力に魅了されない者はいない。15章で述べるが霊能力者のスウェーデンボルグはローマ法皇が魔に堕ちて地獄で暮らしていることを暴露している。位が高いあほど魔に堕ちるチャンスも大きいということだろう。
 密教と大乗仏教が重なることで、密教の力が我欲を満たすために使われる危険を回避できると考える。だが、元々、密教と大乗は油と水。いや、油と水は同じ次元に存在するが、密教と大乗は次元が違う。次元が違うものを比較さえできない。大乗仏教は霊能力のない者にも教えようとする3次元世界が中心の話であり、高次元である密教の上っ面にしかならない。にもかかわらず「密教は大乗仏教の一部」という矛盾した定義になっていることが大乗仏教と密教の支配関係を表している。3次元世界では数という支配力に密教が負けているのである。

 密教は高次元世界の教えであり、高次元とつながる能力を持つ霊能者にしか理解できない。密教は地球上の教義に聞こえるが実際は高次元宇宙の教義である。密教の力を使って人々を救うことはできても、密教自体を人々に教えていくことはその高次元性のために不可能。
 そこで大衆向けの教義を作る必要があった。大乗仏教ではその代表作が法華経である。仏が常に衆生を救おうとしているので、仏を信じて生きていれば、いつかは誰でも成仏できると説いたものである。
 だが、法華経にも矛盾がある。「いつかは必ず」というのは正しいが、そこに至るまで何百回と転生が必要であろう。転生は高次元の話であるから学べるものではなく盲目的に「信じる」以外に方法がない。法華経は大衆に向けた教えであるが、「いつか必ず成仏」という理念は大衆が理解できない。成仏も高次元世界の概念だからである。 
 私たちの思考が3次元世界から抜け出せない限り、科学がどのように発達したとしてもこれらの矛盾は永遠に解決しない。だが、解決しないから高次元世界の存在を考察しないというのは真の科学者の姿勢ではない。量子力学が台頭したがゆえに高次元世界の存在が現実味を帯びてきた現在、私たちの思考は3次元世界から抜け出さなければ真理に近づくことができない。→次の本文を読む