1920年、化学者のダイソンは嗅細胞は臭いの分子全体を感知しているのではなく、原子間の結合の振動数を感知していると考えた。彼はラマン分光計を用いて臭いの振動数を特定した。が、この理論は次の二つの点で論破された。振動数が等しい鏡像体分子の臭いの違いを嗅細胞はかぎ分けるという点、分光計には光が必要だが鼻には光源がないという点。そしてダイソンの振動説は無視された。
1994年にシェパードと森は臭い分子の化学基だけを読むというオドトープ説を唱えたが、同じ化学基を持つが骨格が異なる分子(例えばバニリンとイソバニリン)のにおいが異なることが説明できないという点で筋が通らなかった。
トゥリンはダイソンの振動説に賛同し、嗅細胞は量子トンネル効果を使って振動数を感知していると述べた。ここで初めて量子力学的考察が登場した。トゥリンは76テラヘルツの振動数を持つボランという物質がS-H結合を持つ分子と同じ匂いがするはずだと想定し、ボランの臭いが実際にそうだったことを示した。トゥリンはさらにアセトフェノンとその同位体で臭いを比べ、化学構造が同じでも化学基を重水素に変えると99テラヘルツから66テラヘルツに振動数が変わり、臭いが変化することを示した。つまり化学基の振動数が臭いに影響していることを示した。
しかし、それでも振動説は受け入れられず、この理論を潰すためにロックフェラー大学のヴぉスホールとケラーはトゥリンと同じ実験を一般公募の被験者で行い、臭いをかぎ分けられないことを示して敵意丸出しの論文をネイチャーに投稿した。このように量子力学に結びつくような生体実験の論文は、外部から徹底的に叩かれる運命にある。
ところが助け舟がやってくる。
ギリシャのアレキサンダーフレミング研究所のスクラキスはハエを用いて臭いをかぎ分けられることを示した。つまり、被験者が人間であると正確さが出ないため、公正さを記すためにハエを使い、見事に反論を論破し、2011年に「米国科学アカデミー紀要」に掲載された。ただし「ハエでは」という文章が付け加えられた。これにより量子vs化学は量子に軍配が上がった。臭いには量子的な効果がかぎ分けに関与していると考えられるようになったわけだ。
だが、鏡像分子で臭いが異なることが説明がつかない。ブルックスらはカードリーダーを例に挙げ、受容体の鍵穴と鍵穴にはまってから読み取りが始まるという説を唱えた。鏡像分子の右型と左型は鍵穴の形も右型と左型が必要である。はまり込んではじめて結合の振動により量子トンネル効果が起こり嗅覚神経に発火が起こると考えた。
このように極最近になってレセプターで量子トンネル効果が関与していることが言われ始めた。このカードリーダー説が前述した指紋認証システムである。→次の本文を読む