私の体験談で恐縮だが、私が昔、整形外科医として某都立病院に勤務していた頃の話である。私の受け持ち患者が腰痛と坐骨神経痛で入院していた。硬膜外ブロックやリハビリを行っていたがなかなか痛みが改善しなかった。部長に相談すると「精神科を受診させなさい」と言われた。その通りに精神科を受診させて精神科の担当医に「あの患者はどうですか?」と質問すると、「なんでもありですからね。」と返って来た。私にはこのセリフはカルチャーショックだった。
「精神が病んでいると、存在しない痛みが出る。痛みだけでなく、しびれも、麻痺も、筋委縮も・・・なんでもありだ。」という意味である。
つまり、医学的に理屈の合わない症状はすべて精神疾患と考えてよい。とこの病院の医師たちは考えているということだった。少し考えればこの考えがおかしいことに気づく。
医学で説明がつかない=医学理論を超えた病態生理が働いている、と考えるのではなく、
医学で説明がつかない=医学は理論上全ての症状を網羅しているので、それ以外の症状は全て精神疾患(患者の頭がいかれている)と断定できる、という話になってしまっていた。
この考え方の筆頭者は部長だった。医学は全ての学問の頂点であり、医学書は全ての真実で絶対の書という意識を部長は持っていた。ここまで人間が傲慢になれるのか…と私は非常にショックを受けた。
自分の手に負えない症状は精神疾患にし、患者のせいにする。医学は絶対であり、医学書の治療で治らないのは「患者がいかれている」ことが原因だとする。私は部長のような人間にはなりたくないと思った。
この話は決して極端な話ではないことを患者たちは知っている。薬を飲んでもブロックをしても、症状が改善しない場合、ほとんどの患者が精神科に回され精神科薬を処方される。それは日本の医学界のルールである。治らない症状=精神疾患、としてごみ箱に捨てる。その結果、「必死になっていろんな治療を考案する手間」が省け、他の定型的な患者の治療に専念ができる。経済的にも助かる。必死になっていろんな治療を考案することは厚生労働省が許可しておらず、病院側にも教授にも敵対することとなる。だから不定愁訴は精神科送りにすることは非常に合理的である。
このように医学書にない症状を研究しようとする態度がないのは医療界全体に蔓延しており、不定愁訴を治療対象としない習慣が日本全国に広まっている。医学的にオカルトな話は全て精神科に回すのは、厚生労働省の決めた治療ガイドラインである。
私はこうしたオカルト=精神科、の図式を毛嫌いしているが、合理的であるとは思う。医学で解明できない症状はおそらく量子力学的なエネルギーが関与しており、そこは医学が全く歯が立たない複雑な世界が存在する。研究することが無駄であり、お金の浪費になる。国家としては浪費に税金を投入したくない。それは当然の事。だから、観点を少し変えなければならない。
精神科に回される=西洋医学では治らない、と患者側が理解するべきである。医学で治せないのに患者が「念入りな検査と念入りな手当」を望むから、精神科というオカルト処理場に押し込まれる。国民は医学の限界を知る必要がある。精神科に送られた時点で「これが医学の限界」と悟ることが必要ではないだろうか。そうすれば量子医学に興味が湧くことだろう。精神科の先生方、ごめんなさい。→次の本文を読む