医学を科学的に昇格させた統計学の功罪(本文)

 医学を科学であるという催眠術をかけたのが統計学だった。統計学はAの効果でBが生じたのかAがなくても偶然にBが生じたのか(プラセボ効果という)の差を確率計算する。
例えばAという薬を服薬すれば頭痛が軽くなったという因果関係を統計学を用いて調査する。「薬を服薬したら100人中65人が楽になった。」という結果と「プラセボでも100人中40人は楽になった。」という結果があったとする。この場合は「薬をのんだからよくなった」と言えるだろうか? という微妙な話である。これを数学的に証明しなければならない。
 薬を飲めば治るという因果関係を科学的に証明することは実際には不可能である。しかしそれでは薬の効果を判定できないため統計学を用いて「因果関係の確率を求める」というやり方が発明された。
 この薬に効果はあると言えるのか?を無理矢理数字(確率)で出すのである。カイ2乗検定というやり方で上記のデータを確率計算するとP=0.044(4.4%)となる。これの意味するところは、この実験を世界100箇所の病院で行ったとする。すると偶然にも「薬を飲まないでも65人以上が楽になる」という施設が確率的に4.4件出現するという意味である。この4.4件の施設では薬を飲んでも飲まなくても65人の頭痛が軽くなったわけだ。ではこの薬は「頭痛に効く」と言ってよいのかよくないのかという問題になる。
 世界の取り決めとして、薬を飲まなくても飲んでも全く変化なしという施設が「100件中5件未満なら「意味がある」としよう。」としたのだ。これが5%ルールである。このルールを別の言い方をすると「5%未満の例外は無視してよい。」となる。これが医学を非科学的にさせている最大の理由である。非科学的であるが5%未満という数字を出すことで信用度を得るという方法をとる。これが統計学の功罪である。
 例外の起こる確率を統計学で計算できるというところまでは科学的に理解できるだろう。例外の確率が高ければ「効果としての意味」がなくなり、例外の確率が低ければ「効果の意味」が強まる。しかし、それを5%のラインで区切るというのは「極めて非科学的」なのだ。
 5%は人間の感情で適当に言った数字であり、5%で「効くか効かないかの線引きをする」ことは単なる感覚(感情)でしかなく、科学からほど遠い。
 科学者たちは「思いつき」と言われると困るのでこの5%というボーダーラインを「死守するとりきめ」をしている。本当のところ、ボーダーライン5%であろうが7%であろうが実験者が勝手に決めてよいわけだが、それを許すと「5%を信頼の指標にしよう」という「科学のお墨付き」を崩すことになる。だから「もしも、ボーダーラインを自分勝手に設置するのであれば、「5」としない理由を科学的に言え」という条件がつけられる。
 医学はこの統計マジックによって近年、「科学的」と呼ばれるようになった。しかし医学は無視された5%の犠牲の上に成り立っている。もし、医学を科学と呼びたいのであれば、万に一つの例外さえもないように、全ての例外を理論で証明できなければならない。つまり、なぜ薬を飲まなくても頭痛が消えるのかの理由、なぜ薬をのんでも頭痛が消えないかの理由を全員に渡って調べなければならない。が、それができた医学者はかつて一人も存在しない。それは人間の肉体が複雑すぎて、科学が全く歯が立たないからだ。
 ちなみにさきほどの頭痛薬の例で「100人中65人が治ったという結果が、1人減って64人になった」とする。するとP=0.07となり、5%ルールが適用されなくなる。つまり「この実験に使った頭痛薬は有意に効果があるとは言えない。」という判断が下される。
 たった一人の人数の変化で「効果のあるなし」の判定が覆るのだ。これを科学と言えるかどうかは各自が考えると良い。薬の開発にはウン億以上のお金がかかる。しかし、データを1名分だけ改竄するだけで「効果のない」と判定されていた薬が「効果あり」とすることができる。ならば製薬会社は教授に1000万円支払ったとしても、データ改竄してもらいたいという欲が出る。教授は「たった1名の改竄」なので良心は傷まないだろう。
 1998年に脳代謝賦活剤(認知症治療薬)の4種が認可取り消しになった事件はまだ記憶に新しい。この4種は年間8000億円の売り上げだった。なぜ「効果のない薬」が「効果ありとして世に出て、何千億円という税金がつかわれてしまうのか?」の仕組みが理解できたと思う。が、国民はそういったことにほとんど関心がないようだ。薬1種で8000億円とはすさまじい金額だと私は思う。
 ただし、私は統計学を否定しているわけではない。医学が統計学をどのように利用して「科学的でないものを科学的と信じさせる」手法をとっているのかのからくりを述べたに過ぎない。 →次の本文を読む