世界とそれを創りだす力に気づくことによってわれわれはその主人となる。その力がわれわれの中で眠り続け、きづかれないでいる限りはそれらに近づくことはできない(同著)。悟れば宇宙創造の力の主人になれるという意味である。密教はそれほどとんでもない力を得る方法を教える教義。しかし、この教義を真実だとしても、そこにはタネがある。無限という時間をかければ可能なのであり、その言葉の真の意味は「いくら時間をかけても無理」と解釈できる。限りない時間をかければ可能とは限りある時間では無理という意味になるからだ。密教にはこの手の矛盾が満ち溢れている。
また、この創造力は全ての生き物に開けている。人類だけに開けているのではない。創造力を仮に身に着けたとしよう。その力を生きているものたちは、生存競争に使ってしまうことを避け得ない。しかし、たとえ生存競争に勝ったとしても、生存競争に負けたものさえも、創造力を得るチャンスがある。だから力と力のぶつかり合いは絶えることがない。力を持つものは争いの渦に巻き込まれることは避け得ない。ここに究極の矛盾がある。創造の力が破壊を生むのである。密教の力が破壊に用いられると無残であろう。競争無くして成長はないから成長が永遠に続くのなら争いも永遠に続く。密教の力で争いをなくすことは不可能。だとすれば、世界を創造する力が誰にでも開かれているというのは信じがたいし危険すぎる。誰もがアクセスしてよい力ではないはずだから、無数の制限がかけられているだろう。力を使うには無数の審査を受けなければならないと思われる。その審査に関して密教はほとんど触れていない。さらに言うと、審査をするのが人間であったとすれば、審査は人を支配するための道具として悪用されることを避け得ない。
密教の教義には、力を得た者がその力を何にどう使うかについて書かれていない。そこが問題である。原爆ミサイルの作り方は書いてあっても、作ったミサイルをどう利用するのか? そこから先を意図的に言及しないように努めているようにさえ思える。
私たちは、私たちの中にある普遍的意識に気づけば、神の力を得ることも不可能ではないという。しかし、その力を何にどう使うかは、使う者の人間としての器に極めて依存している。
妬み、怒り、支配への欲望を全く抱かない人間はいない。神の力を得る者は人々から敬意を表されることを知らぬ間に望んでいる。つまり敬意を表さない人間に多少の怒りを感じる。それは支配欲の表れである。神の力にアクセスできる時点で、そういった穢れや欲望はないと考えたいがそうではない。聖者でさえ一人では生きておらず、聖者の周囲の者を養い、勢力範囲を拡大するために(人を支配するために)神の力を用いてしまうことがある。それは聖者の力によって恩恵を受けた人間が、その後に十分な謝意や敬意を表さない場合に、その人間に神の力を用いて罰を与えるというたぐいのものである。
聖者はそのような罰を与えないかもしれないが、聖者の弟子たちが無礼な信者に対して怒りを持つことで罰が発生し得る。これは同様に神の世界でも起こる。神は無礼な信者に対しても寛大だが、神に仕える高次元意識体たちが「神に対する無礼」への罰を与える。
密教にはそうした恐ろしさが常に表裏一体となってつきまとう。
煩悩を滅することができる者にだけ霊能力があるとは限らず、煩悩にまみれた霊能者が神の力にアクセスすることも普通にある。そうした力が私利私欲のために暴走することを私たちは常に考えておかなければならない。が、その手の話はおそらく意図的に表に出ないようにされている。
3次元世界において、高次元の知恵や力にアクセスすることは、暴力を得ることに等しいが、その暴力を人間の力では制御しきれず暴走する危険が常にある。密教の力を得ようとすることは、暴力団の団員になり組長と杯を交わすことに等しい。途中で抜けることは許されない。そのことを考えずに安易に高次元パワーにアクセスする者が多いと私は思う。高次元のパワーの中には善に見えるものも悪に見えるものもあることを考えなければならない。→次の本文を読む