修行と見せしめの違い(本文)

 一般的な意見として、軽度の罰は修行、重度の罰は因縁、死に至る罰は支配、複数の死は大勢に対する誇示(見せしめ)と考えてよいだろう。それらに境界線はないが罰は軽いものは教訓、重いものは支配(服従させる)のために行われる。
 人間には高次元のエネルギー(霊力)が見えないので、死をもってそのエネルギーの強さを示す、それが見せしめである。
 これまでの章では病気は霊的な力で発生することを述べてきたが、この章ではさらに強い力があることを示した。死といっても魂を消霊するわけではないので、霊界から見れば大したことがないのかもしれない。私たちが死に異常なほど恐怖心を持つのは、この3次元世界が存在の全てであるという幻影を妄信しているからにすぎない。だからこそ、見せしめとして死に至らしめるということが霊界では容認されているのかもしれない。
 私たち人間の視点で考えると死刑は罪を防止する意味があり、法に服従させるためにあり、遺恨を晴らすための復讐としてある。祟りによる死もその原理と大差ないと思われる。
 罰は目的と理由の違いによりその意味合いが変わる。例えばリンチ(私刑)は恨みを晴らすことが目的であり、理由は個人的な業にある。マフィアのボスが仕事をしくじったという理由で部下を殺す場合、部下を恐怖で支配し、命令に絶対服従させることが目的である。国王が謀反を起こした者を死刑にする場合、強権を示して統治という目的がある。
 このように祟りは、罰を与える者の都合によって理由や目的が変化する。私たちはその一つ一つ罰の理由と目的を考えることが必要である。例えば、草なぎの剣は国家を守るほどの強い霊力があり、実際に日本を守っている重要な力だったとする。その剣が盗まれたり、力を発揮できる位置に置いておかなければ国が滅びるのであれば、草なぎの剣に宿っている神は暴力を用いてでも無礼を働いた者たちに罰を与える。そこには国を守るための大儀がある。地球全体の調和のためなら、その調和を見出す人間を排除するのはやむを得ないこともあるだろう。
 ただし、多くの罰は大儀で行われているわけではなく、人間の神仏への敬いが足りないから、という理由で無礼を働いた人間に厳重な罰を神が下すケースが多いと思われる。「人間の勝手気ままを許さない」という神霊は、この地上に多く存在していると私たちは理解しておいた方がよいだろう。→次の本文を読む