何を祀るかではなく何を祈るか(本文)

 霊験あらたかな神社に参り祈願をしても、その祈願が我欲であるならば神はそれを無視する。多くの人々の幸せに貢献することを願うなら神は協力する。だから、格式の高い神社であればあるほど、普通の人間の「願いが叶わない」ことになる。ところが、商業化している神社や低級の霊が多く集まる神社には悪霊もたくさん巣くっているだろうから、そういうところで我欲を祈願すれば願い事が叶うだろう。ただし、それを叶えるのは悪霊か低級霊であることが多い。
 自宅で神を祀っている人も同様。善なるものを願う場合、そこに善良な神が陣取ってくれるが、我欲ばかりを祈願していると、そこを陣取るのは悪(低級)霊となる。
 祀っている仏像やお札の外見は関係ない。素晴らしい観音様の仏像を持っていても、そこで我欲を願っていると、その仏像には観音様ではなく低級霊が住むようになる。
 高野山や比叡山など、霊験のあるお寺の最高役職に就く僧侶たちは、誰のために何を祈っているだろう? おそらく株式一部上場企業の社長の商売繁盛や政治家の心願成就を祈っているのではないだろうか。それでは善なる神が遠ざかる。そしてそれらを祈る者も善から遠ざかる。祈る者の役職の高さは関係ない。
 密教やチベット医学ではさんざん「僧侶の霊」を大悪霊として危険視している。僧侶の霊は怖い。残念なことだが、商業的な密教の寺院は怖い僧侶の霊を生み出すための学校になっているとも言える。
 悪霊化した僧侶の霊は「お金、地位、名誉」を向上させる強い霊力を備えている(ご利益が高い)。だが、彼らに祈願することは、ヤクザに大金をもらうのと同じである。その願いをかなえてもらった者は死後、彼らの奴隷として支配される恐れがある。しかも永遠に。
 実際にスウェデンボルグはローマ教皇が地獄に堕ちているのをレポートしている。呪術にも長けていると述べていた。
 企業の社長たちがこぞって神々に商売繁盛を祈るのはよいが…よほどしっかりした徳がない限り、祈願が成就してしまうと冥界で悪霊の支配下に置かれてしまう。しかも、生前にひいきにしてくれた大僧正が悪霊化し、死後にその大僧正に支配される。その怖さを知れば、儲けたお金をどのように善行に使うか?を全力で考えないとたいへんなことになる。
 遺産を全額教団に寄付しようとする信者は世界中にいる。その際、その教団の教祖(僧侶)と遺族が裁判で争うことも頻発しているが、原告側が原因不明の不審死で突然亡くなることは珍しくない。これは教祖(僧侶)側に憑いている霊が暴力的であり、それらの霊が相手に祟るからだろう。
 ビルの屋上にはお稲荷様を祀っている社長が多いが、そこに宿るモノが善霊か悪霊か? 考えると誠に恐ろしい。祀っている時はご利益があるが、社長が死後、稲荷供養を親族がきちんと引き継がないと祟られる。そして稲荷系の呪詛で大病にかかる人は結構多いと思われる。神々に何を祈るか?は誠に重要な問題である。→次の本文を読む