体験からしか学べない(本文)

 著書「チベット密教の真理」にはしばしばブッダ(お釈迦様)の話が出てくる。密教とブッダの教えの宇宙観は通じている。それはブッダが究極の霊能者であったことを意味する。ここでいう究極とは、おそらく地球史上、彼以上の霊能者はいなかったと言えるレベルの究極である。ブッダの霊能力は世界中のありとあらゆる宗教の開祖者たちの霊能力と比べても桁違いに高かったと想像する。その証拠が教典にある。ブッダと密教の主張に共通しているのは、教義を「言葉に表すことができない」という点である。まさに宇宙の真理は高次元過ぎて民衆に言葉で教えることは不可能と言っている。だから密教ではマントラという言葉であって言葉でない音声、であり、ブッダは般若心経で「宇宙の真理はどれほど知識を入れても考えても知識にさえならない」と教えている。逆に言うと、民衆が理解できる教典が残っているものは、宇宙の真理にたどりついていないことの証となる。地球史上、宇宙の真理にたどり着けた者は、ブッダ以外にいないのではないかと私は思う。
 ブッダは弟子たちへの説教として般若心経を残したがこれは大衆に向けたものではない。なぜなら、般若心経に書かれてあるような内容は、霊能者が体験することでしか理解できないからである。大衆に説くことが無駄であることをブッダは最初から悟っていた。
 そういう意味で般若心経は密教である。一般人に理解できるレベルを超えているので「密」になってしまうからだ。般若心経にある「色即是空」という言葉でさえ、常人には理解できない。目に見えるもの、形あるものの全てが「空」であると教えられても、意味不明のはずだ。
 アインシュタインがE=mc²という公式を発表し、全ての物質がエネルギー(実体のない波動)であることを証明したが、それはごく最近のことであり、ブッダは2000年以上前に、物質が「空」であると知っていた。それを一般人に述べたところで、誰にも理解できない。
 しかし、そうした真理をブッダは弟子に説いた。これは逆に言うと、弟子たちも霊能者であったことの確証となる。宇宙の真理は解説しても無駄であり、体験しなければ理解できない。高次元の世界を体験できるのは霊能者だけである。
 「ブッダは単なる理論や推論で「深淵なもの」を言葉に置き換えて教えることに躊躇した。彼は究極的事柄について語ることは厳しく避け、悟りに関する質問、超能力に関する質問には回答を拒絶した。」とある。
 当時は霊能者の弟子にさえ、言葉を用いて教えなかった。その高められた意識の状態を実践によって得ようとする努力もせずに、知的に想像しようとする者の空虚な会話や思考をさけるためだった。
 ブッダはある時、一握りの木の葉を拾い上げ、弟子にこう話された。
「私の手の中にある木の葉が森全体の木の葉に比べて非常にわずかであるのと同じように、汝らに教えてきたことも、私が知っていることのほんの小さな断片を成すものにすぎない。」と。
 現代、本屋に密教の本が並んでいる。しかし、霊能者にしかその内容を体験できないことは今でも変わりない。ただし、この事実は「霊能力のない密教の僧侶」にはタブーとなっている。なぜなら、霊能力がない僧侶こそ、必死に経典をまる暗記し、厳しい修行を積み、高い地位を目指し、宗教界を政治的に支配しようとする野心があるからだ。
 一方、霊能力のある僧侶は人間の師匠以外に神仏の師匠を得る(霊能力はそもそも神仏とつながる力)。神仏の師匠は野心を捨てさせる方向へと導き、師匠とは異なる方針でその霊能者を導く。そのため、霊能者は師匠との意見が合わなくなり左遷される傾向がある。密教でさえ霊能者を冷遇する傾向があるのだから、他の宗教ではそれ以上に霊能者は冷遇されるだろう。宇宙の真理は霊能者にしか体験できないというのに、霊能者が宗教界で冷遇されるとは・・・人間とはいかに傲慢な生き物であろうかと考えさせられる。→次の本文を読む