レセプターは医学の急所(本文)

 医学は化学。そして化学はレセプター学。西洋医学はレセプターから放出される化学物質を研究することで爆発的に進歩したと言っていい。だから前述した嗅細胞におけるレセプターの仕組み(一つの細胞が何種類もの臭い分子を認識できる)は医学を根底から覆すほどの大事件になっている。量子論が医学の牙城を崩すとすれば、そのきっかけはレセプターの研究であることはほぼ間違いない。
 私は医学部の学生の頃からレセプターの仕組みについて「教科書に書いてある内容」を信じることができなかった。
 運動神経の末端と副交感神経の末端ではアセチルコリンという化学物質が放出され、レセプターにアセチルコリンがはまりこんでスイッチをonにし、筋肉が動くと教科書で習った。このような仕組みは1914年にヘンリー・ハレット・デールによって発見され、オットー・レーヴィによって神経伝達物質であることが明らかにされた。彼らはこの業績により1936年にノーベル生理学・医学賞を受賞している(wikiペディア)。
 しかし、私はこの仕組みがスピードに対応できないことにすぐに気づいた。例えばハチドリは毎秒80回のはばたきをするが、そのときはアセチルコリンが毎秒80回分泌されているのだろうか? という単純な疑問である。蚊は毎秒1000回のはばたきをするが、蚊の神経末端ではアセチルコリンが毎秒1000回分泌されるのだろうか? どう考えても「分泌されてスイッチがonになり筋肉が収縮するという話ではこのスピードとの理屈が合わないと感じていた。そんなことを本気で考えている医学者がいるなら、少し頭のねじがゆるいと、私は学生ながらそう感じていた。毎秒1000回の信号を伝えるには「分泌したものがレセプターにはまる」という物理作用ではスピードが全く追いつかない。
 もしも、こうした実験が物理学者によってなされたのならスピードの理屈が合わないことを指摘され、たやすく論破されてしまうはずだ。決して頭が良いとは言えない私の頭で考えても気づくのだから科学者たちがこの矛盾に気づかないはずがない。ではスピードの矛盾の指摘を誰もしないのだろう。それは医学の封建制度が強すぎて、医学者たちに反論を唱える勇気がないからと考える。物や動物の理論なら平気で反論が飛び交うが、相手が医学となると論者が弱腰になるようだ。だが、ここが医学の恐ろしさでもある。理屈に合わないことが教授の権威によりまかり通ってしまう世界だからだ。このような体勢は科学ではなく宗教に近い。中世の科学者たちがアリストテレスの理論に決して反論を唱えなかったのと原理が同じである。
 彼らが神経末端で化学物質がオンオフの電気信号を伝えていると理論づけた理由は理解できる。それはニコチンやムスカリンという化学物質で筋の収縮が見られアトロピンなどのブロッカーでその反対の作用が起こるからだ。これらは確かに神経末端と筋の接合部で化学物質が信号の橋渡しをしている証拠になる。だがそのさらに先にある不思議な出来事に対する考察は無視される。本当にレセプターが信号のオンオフの情報だけしか伝えられないのだろうかという疑問である。オンオフしかできないレセプターでハチドリが毎秒80回も羽ばたきができるはずがない。この疑問から先は人間の叡智が及びもしない世界だ。
 ところが量子論が世に出たのは1900年。コリン作動性レセプターの発見は1914年。もしも物理学者が人間の仕組みについて真剣に研究を始めれば、レセプターに量子的な信号の受け渡しがある可能性について研究が進んだはずである。しかし、医学は化学者以外の立ち入りを禁止して量子論を寄せ付けなかった。だからいまだに古典的レセプター理論のままなのだろう。医学は100年以上前の状態で時計を意図的に止め、化学の特許と利権で大金を稼ぐ道を歩んだ。化学をしのぐ量子理論が世に普及すると化学薬品が売れなくなる。
 私は平成の時代にアナログのカメラが完全に衰退し、デジカメが主流になったのをこの目で見た。最初はデジカメがプロの世界から締め出しを食っていたのだが、やがてデジカメの性能が高くなると、もはやアナログのカメラは敗退した。化学は今、そんな変遷の時代の入り口にある。量子学が化学にとって代わろうとしている。だが製薬会社や医学部の教授たち、官僚、政治家、経済界が必死に抵抗している図が見える。→次の本文を読む