ノーベル医学賞を受賞したアレクシー・カレル(本文)

 アレクシー・カレル(以下カレルと言う)はフランスの医学者であり、動脈を縫合する技術を開発し、1912年に39歳の若さでノーベル医学賞を受賞した。機械論でノーベル賞を受賞したカレルが、「奇蹟の治療」の存在を確かめようとフランスのルルドを訪問したのは1902年(29歳)の時だった。以下の文章は「ルルドへの旅、アレクシー・カレル;田隅恒生訳」を参考にしている。
 カレルは20代の時、リヨン大学の解剖学教室で解剖学実習の助手を務めていた。その頃血管を縫合する技術を修練し、「縫い目をどちらの面にも出さずに紙を縫い合わせることができた」と言われるほどの縫合技術を持っていた。
 その技術を応用して生後3日の新生児の赤ちゃんの命を救ったというエピソードがある。それは新生児メレナで大量出血をしていた赤ちゃんの静脈にその父親の動脈を縫いつなげて輸血し、死亡必至の状態を救ったのだった。その赤ん坊の父親はコロンビア大学の教授(ニューヨーク在住)であった。カレルはニューヨーク州の医師免許を持っていなかったが、深夜にかばんひとつでかけつけて血管縫合処置を行い、赤ん坊の命を救った。
 このエピソードを1902年リヨン・メディカル誌に発表し、カレルは一躍有名になった。しかしこの業績にもかかわらず、彼はリヨン大学を追われ、病院勤務の資格試験を何度も不合格になり(不合格にされ?)、フランスを捨て1904年にカナダのモントリオールに渡った。
 なぜ彼ほどの技術と頭脳を持っていながらキャリアを捨てて国を捨てたのか? その理由は彼がルルドを訪問したためであった。当時ルルドに礼拝に行くと不治の病が治るという噂があった。そのルルドを訪問することは「奇蹟の治療の信奉者」「宗教家」であると思われ、医学にケチをつけることを意味していたからである。ルルドを訪問することで医師としての人生を奪われてしまったのだ。
 カレルにとっては極めて屈辱的な出来事であり、これが祖国を捨てようとまで彼を思い立たせた原因だったと思われる。この屈辱が彼のバネとなり、彼の不屈の闘志を湧き起こさせた。そして結局彼は39歳の若さでノーベル医学賞を受賞するまでに大出世した。彼に宗教家のレッテルを貼ったリヨン大学の教授たちを見返したのだった。
 彼がルルドで見たものは、まさに奇蹟だった。もうあと数時間で死に至るだろうと思われるような重体の患者が、神への祈りと湧き水をかけることで、数時間後に完治してしまうのを目の当たりにしてしまった。彼はそれを認めざるを得なかった。
 そして、彼は医師として客観的にこの事実を記録しようと努力した。そしてその手記を元に小説仕立てにしたものが「ルルドへの旅」である。彼はそれを生前は発表しなかった。彼の死後、妻の手で発表された。発表しなかった理由は「再び宗教家と思われて迫害されること」を恐れたからだろう。結局彼は医学を超えた奇蹟の力が存在することを世に出すことなくこの世を去った。
 しかし、妻がこれを出版し、世間に衝撃が走った。ルルド訪問をノーベル医学賞受賞者が語ったおかげで奇蹟の力に客観性がついてしまったからだ。「神は実在し、神の力で不治の病が治る」ことを宗教家ではなく機械論の最高峰であるノーベル医学賞受賞者が言うのだから、それは医学界への核爆弾に匹敵する。医学は機械論の頂点に君臨し、機械論が世を支配しているというのに、その機械論で最高の栄光を得た者が、その中から機械論を破壊することを論じたという意味となる。まさにカレルはトロイの木馬となった。彼はその意味を理解していたからこそ生前に発表しなかった。地動説を唱えたコペルニクスと同じである。実際に彼は機械論者たちから迫害されたトラウマを持つ。
 存命中に発表すれば、神の信者(カトリック教徒)には「安易に奇跡と認め過ぎる」と非難され、医学界からは彼らへの非難ととられて非難される。つまり、誰からも非難されてしまい事実をもみ消されてしまうからだ。死後の発表であるからこそ伝説となり得た。→次の本文を読む